5. - ファイ -
それで彼女の中の何かが吹っ切れたのかもしれないし、もしかしたら却って割り切れなくなったのかもしれない。とにかく彼女は仕事を始めた。けれど僕に名前を教えてはくれなかった。僕の方も特に彼女に名前を聞くことはなかった。
だから僕の中で彼女はサリィのままだった。
吹っ切れたのは僕の方だったかもしれない。
僕らの関係について僕が彼女に口止めすることはなかった。女たちに僕の存在が、つまり僕が「そういったことができる」と知られても構わないとさえ思っていた。
彼女が此処へ来る。彼女と一緒にいる。それだけが僕の全てだった。
仕事以外の時間を彼女は僕の室で過ごした。僕らは一緒に食事をして、一緒に眠った。俯せに二人して転がって、一度に掴める干し草の数を競った。時々セックスをした。
「順番に羊をね。追い掛けて捕まえるゲームをしよう」
それは子供達がいつも眠る前にする遊びだった。大人になってしまったというのに、僕らにはそんな単純な遊びすら面白かった。
「じゃあ僕から。一匹目は白い羊」
「二匹目はねえ花柄。花柄の羊」
そうやって眠りに落ちるまで順にただ数えていく。二人だけだから数はただ交互に増えるだけだ。
「27番目は……。27番目は僕か。僕はどんな羊?」
「片脚が悪くて、いつも犬に追い掛けられてる。で、すぐ転ぶの」
「言うね。ずっとぐうたら寝てばかりの羊かと思ってた」
「そっちの方がよっぽど嫌よ」
「そうかなぁ」
反論の余地ありだ。現にこの段階でもう僕の意識は充分眠りたがっている。28番目の羊、寂しがりやの癖に人見知りの激しいエイツが群れから少し外れた所でメエメエと鳴き、29番目の羊が片脚の悪い27番目の羊を追い回した。僕はナインに追い回されているというのに話を半分も聞いていなかった。
「妊娠したの、アタシ」
「へえ……」
「驚かないの? ……驚かない、か」
「驚いてるよ、凄く」
妊娠したことにも驚いたが、その話運びに驚いた。これから30番目の羊、サリィの話をする筈なのに。
「セヴェンの子供」
「僕の? どうして?」
尋ねてしまってから彼女を傷付けたかもしれない、と後から気付いた。
けれど彼女の様子はさして変わらなかった。
「どうしても。……何となくわかるの」
やはり彼女の中で何か吹っ切れるものがあったに違いない。仕事を仕事として割り切れているから傷付かない、そういう強さを感じた。
それとも母親になると皆強くなるのだろうか? 女だから? 女は一様に皆強いのだろうか?
一つ言えることは、もう彼女は以前の頼りない不完全な存在ではないということだ。
その変化は神秘的ですらあった。
「セヴェン。一緒に逃げようか、此処から」
無理だよ、と僕は言わなかった。
僕も大人になって何か変わったのだろうか?
「どうして?」
「だって、男の人は大人になるといなくなるでしょう? アタシ、この子のこと、セヴェンと一緒に育てたいのよ。だってセヴェンの子供なんだもの」
僕の子供。
考えもしなかった。此処に居れば、彼女と僕の子供を見ることはできない。
「いいよ。行こう」
逃げるのではなく、自分の足で生きていく為に。
例え歩くのに不自由なこの脚でも。