第3話「辺境伯の目」
辺境伯の城は、山の斜面に張り付くように建っていた。
馬車が山道を登るにつれ、木々の間から石造りの塔が見え隠れするようになった。増築を重ねた跡が複数の様式を混在させていて、美しいというより堅牢という言葉が似合った。長い歴史の中で何度も戦に耐えてきた建物の、実用的な重さがあった。
「城が見えてきましたね」とランベルトが言った。
「はい」
私は窓から外を見続けた。あの中に、七歳の子どもがいる。一ヶ月、熱が続いている。
馬車の揺れの中で、私は昨日から反芻していた鑑別診断のリストを再び頭の中に並べた。
第一に考えるべきは感染症だ。七歳の子どもが原因不明の高熱を一ヶ月続けているなら、ウイルス性あるいは細菌性の髄膜炎か脳炎が最初の候補に挙がる。王都の神殿が手を出せなかったということは、光治癒魔法で一時的な熱は下がるが、翌日には戻るということだろう。それは、感染源そのものではなく、感染に対する体の異常反応が問題である可能性を示唆する。
第二に、自己免疫性の脳炎を考える。ウイルス感染が引き金になって、体の免疫が脳を攻撃し始めるケースが稀にある。光治癒魔法は組織を直接修復しようとするが、免疫の暴走そのものを止めることはできない。だから治りかけては戻るという経過になる。
第三に、代謝異常。稀な遺伝性疾患の可能性。これは診てみないとわからない。
ランベルトが朝に話してくれた症状を再確認する。熱は三十八度から三十九度の間を行き来し、ときに四十度を超える。意識は薄れがちで、名前を呼んでも目が開かないことがある。痙攣は月に二、三回。食事がとれず、この一ヶ月で体重が落ちた。
これだけの情報でも、ある程度の絞り込みはできる。
だが確信は、精霊視で読んでからだ。
城門をくぐると、内庭に迎えの人物が待っていた。
四十代前半に見えた。日焼けした顔、眉間の深い縦皺、灰色まじりの黒髪。甲冑ではなく厚手の上着を着ていたが、その立ち方が兵士のものだった。重心が低く、両足が地に根を張っている。長年、体を張って生きてきた人間の立ち方だ。
その人物が、私を見た。一瞬、何かを読み取るような視線だった。
「先生がアイリス・フォン・ヴァルテリア殿か」
「はい」
「クラウス・エーレンベルクだ。遠いところを来てもらった」
声は低く、感謝の言葉を言いながらも感情が出ていなかった。礼儀として言っているのか、本心から言っているのかが読めない。ただ、急いでいることは伝わった。目の奥に焦りがある。それを表に出さないように訓練された人間の、かすかな緊張だった。
「すぐに診てもいいですか」
クラウスが少し目を細めた。
「挨拶はいいのか」
「後でいくらでも。子どもを一日でも早く診たいので」
短い沈黙があった。それから、クラウスが踵を返した。
「ついてこい」
子どもの部屋は城の北側にあった。
扉を開けると、湿った熱気が漂ってきた。窓は閉め切られ、暖炉が焚かれていた。好意からそうしているのだろうが、換気が悪いと回復の妨げになる。
ベッドに、男の子が横になっていた。
年齢の割に細く見えた。一ヶ月で体重が落ちた、という話が顔にも体にも出ている。肌は蒼白で、わずかに汗ばんでいる。目は閉じていて、呼吸は浅かった。
傍らに女性が座っていた。三十代半ばと思われる。目の下に暗い影がある。長い間、満足に眠れていない顔だ。
「母御です」とランベルトが小声で言った。
私は近づいて、膝をついた。
「今日の状態を教えてください」
母親が細い声で答えた。「朝から熱が三十九度二分です。昨日の夜から少し意識がはっきりしてきたかと思ったんですが……」
「名前を呼んだら返事をしましたか」
「目は開けました。でも、何を話しても焦点が合っていないような」
「痙攣は」
「一週間ほど出ていません」
私はゆっくりうなずいた。それからルーカスの額に手を当てた。熱い。だが、熱の質に何かある。
精霊視を起動する。
子どもの体の中に、流れが見えた。
健康な体の精霊流は川のように流れる。滑らかで均一で、体の隅々まで届いている。しかしこの子の流れは、脳を取り囲む部分に異常があった。炎症を示す橙色の渦が、脳の表面を帯状に覆っている。感染症に見られる直接的な「灼け」ではない。もっと複雑だ。免疫細胞が攻撃している痕跡、という言葉が頭に浮かんだ。
さらに奥を読む。
脳脊髄液の流れに、微細な詰まりがある。炎症によって組織が腫れ、正常な循環が妨げられている。これが意識障害の直接原因だろう。
重要なのは、これが単なる感染症ではないことだ。感染そのものはすでに収まっている可能性がある。残っているのは、感染に反応して暴走した免疫の余波だ。
光治癒魔法で熱を下げると一時的には楽になる。だが免疫の暴走は止まらない。だから翌日にはまた悪化する。それを一ヶ月、繰り返してきた。
私は手を離した。
「何か分かったか」
扉の近くに立っていたクラウスが、静かに言った。
「分かりました」
「何が問題だ」
私は立ち上がり、向き直った。
「感染症が引き金になって、体の免疫がお子さんの脳を攻撃している状態です。感染そのものはほぼ終わっていますが、免疫の誤作動が続いています。光治癒魔法で熱を抑えると楽になりますが、根の問題を解決しないので次の日には再燃します。それが一ヶ月続いた理由です」
クラウスが黙っている。
「王都の神殿でも診断がつかなかったのは、この状態が比較的稀で、精霊視で体の内側を精密に読まないと見えないからです。光治癒魔法は症状に直接働きかけますが、免疫の暴走そのものを制御する力はありません」
「治せるか」
率直な問いだった。感情がまた抑えられていたが、その一語に全てが込められていた。
「治療方針はあります。ただ、確実に治ると約束はできません。今の状態は深刻ですが、絶望的ではない。正しい治療をすれば、三週間で熱が安定して、六週間で意識が戻ってくる可能性があります」
「その治療とは」
「三つあります。一つ目は炎症を鎮める薬草の処方——ただし、体の免疫を全部止めるのではなく、脳への攻撃だけを抑えられる配合にする必要があります。二つ目は脳脊髄液の循環を助けるための施術。これは私が直接行います。三つ目は栄養補給と環境の整備——今より換気を良くして、体温を急激に上下させない管理が必要です」
クラウスはしばらく黙っていた。それから一言言った。
「部屋の窓を開けてやれ」
傍らにいた使用人が動いた。
「先生はいつまでここにいられる」とクラウスが私に言った。
「六日、とランベルト殿には伝えていましたが、状況によっては延ばすことができます」
「延ばしてほしい」
「ルーカス様の状態が落ち着くまで、ここにいます」
クラウスが私を見た。先ほどとは違う目だった。値踏みでも疑惑でもなく、確認するような視線だった。
「先生、一つ聞いていいか」
「はい」
「王都の神殿で聖女を務めていたそうだが、なぜこんな辺境にいる」
「追放されたからです」と私は答えた。
沈黙。
「婚約破棄と同時に聖女の称号を剥奪されました。行き場もなく来たのが、エルダースです。ランベルト殿が医師を探しているという話を聞いたので」
「それで、追われてきたのか」
「追われてというより——こちらに来てみたら、患者がいたので、治しているうちに一ヶ月が過ぎました」
クラウスが少し目を細めた。笑っているのか、読めなかった。
「ランベルト。お前の判断は正しかった」
ランベルトが、ほっとした顔で頭を下げた。
治療は翌朝から始めた。
まず薬草の在庫を確認した。城の薬草庫には基本的なものは揃っていたが、私が必要としている三種が足りなかった。クラウスに伝えると、一時間後に「調達した」と言って届いた。辺境の城に来て三時間で、どこで手に入れたのかは聞かなかった。
調合は自分でやった。
マリアが報告してくれていた色の変化を思い出しながら作業した。タンポポの根とヤーロウは抗炎症の基盤。セイヨウノコギリソウは脳の血液関門への透過性を高める補助剤として使う。比率が重要だ。強すぎると体全体の免疫を抑制しすぎて感染に弱くなる。弱すぎると脳への攻撃を止められない。
三時間かけて、必要な薬を六日分調合した。
ルーカスに最初の薬を飲ませたのは昼過ぎだった。母親が介助して、少しずつ飲ませた。意識が薄い状態でも、喉の反射は残っている。
その夜、私は施術を行った。
精霊視を使い、脳脊髄液の流れを妨げている部分を特定する。手のひらを頭蓋骨の後ろに当て、詰まりの位置と向きに合わせて、圧をかけながら微細な振動を送る。魔力を使うのではなく、体の本来の流れを助けるような力の入れ方だ。これは神殿では「古代の手技」と分類されていて、実際に使える神殿医は少ない。
一時間の施術が終わると、ルーカスの呼吸が少し深くなった。
「どうだ」とドアの外からクラウスの声がした。
「今夜は様子を見ます。明日の朝、熱が少し下がっていれば、方向は合っています」
翌朝、熱は三十八度七分だった。
一昨日が三十九度二分だった。わずかな変化だが、一ヶ月の経過の中で自然に下がることはなかったとランベルトが言っていた。
クラウスに報告すると、彼は黙っていた。
「まだ安心はできません。最初の三日が大事なので」
「わかった。引き続き頼む」
その日の午後、クラウスが城を視察に出ると聞いた。同行してよいかと聞いたのは、城の周辺に生えている薬草を確認したかったからだ。城の薬草庫の補充という名目もあったが、本当の理由は新鮮な空気が吸いたかったということと、クラウスという人間をもう少し知りたいという気持ちがあった。
「構わない」と彼は言った。
城の外に出ると、空が広かった。
辺境の秋の空は、王都とは色が違う。高く、濃い青で、雲の輪郭が鋭い。遠くの山の頂は白くなり始めていた。
クラウスは馬に乗り、私は馬車の代わりに歩いた。北の土地の人間が鍛えてきた足さばきに合わせて歩くのは、少し早かったが苦ではなかった。
「先生は乗馬はできないのか」
「神殿では必要なかったもので」
「ここでは必要になることがある。時間があれば教えよう」
私は少し考えた。六日で帰る予定だったが、「時間があれば」という言葉は複数日の滞在を前提にしていた。
「ありがとうございます」
視察は城の周囲三里の範囲だった。農地の状態を確認し、見張り台の兵士と話し、水路のひとつを点検した。クラウスは各所で短く的確な指示を出した。感情的なことは何も言わなかった。問題を見つければ対処方法を指示し、報告を受ければ頷いて次に進む。
途中、山の斜面に野生のセイヨウノコギリソウが自生している場所を見つけた。
「これを少しもらっていいですか」
「何に使う」
「ルーカス様の薬に。城の庫にあったものより、採れたての方が成分が濃い」
クラウスが斜面を見た。
「この山全体が城の領地だ。必要なだけ採っていい。城の庫のものも自由に使え」
「ありがとうございます」
薬草を採りながら、私はヨーゼフ村長の頼みを思い出した。話す機会があれば、と言っていた。
「一つ、お願いを預かってきたのですが」
「エルダースの村長からか」
「はい。ご存知でしたか」
「ヨーゼフが先生に何かを頼んだだろうとは思っていた。あの男は先を読む」
「南側の斜面を薬草畑として使う許可を、もし可能なら、という話でした」
クラウスは少しの間、山を見た。
「南の斜面というのは、あの日当たりの良い区画か」
「そう聞いています」
「構わない。ヨーゼフに伝えておけ。管理の名義はエルダース村長として、収穫物は周辺集落とも共有する条件で」
あっさりしていた。私は内心少し驚いた。
「ありがとうございます。村長は喜ぶと思います」
「先生がいれば薬草の需要は増える。薬草が育てば先生の仕事がやりやすくなる。理にかなっている」
感謝でも施しでもなく、実用の判断として言っていた。
この人は、そういう見方をする人なのだと思った。
三日目の朝、熱は三十八度一分になった。
四日目、三十七度八分。
五日目、三十七度三分。
この日の夜、ルーカスが目を開けた。
それも、焦点の合った目で。
「ルーカス」と母親が声をかけた。
男の子はゆっくり振り返った。
「……お母さん」
声は弱かったが、はっきりしていた。
母親が泣いた。声を抑えようとして、肩が震えた。
私は少し後ろに下がった。
ドアの外でクラウスが聞いていることは分かっていた。部屋には入ってこなかった。それが、この人の流儀なのだろうと思った。
六日目の朝、私はクラウスに報告した。
「意識が戻ったことは分かりました。これから三週間は継続して薬を飲む必要があります。処方と量を書いておきますので、城の薬師に調合を依頼してください。わからないことがあれば、エルダースに文を送ってください」
「エルダースで常駐するのか」
「村に戻ります。ここで治療を続けることも可能ですが、エルダースには私を待っている患者がいます。マリアの指導も途中です」
クラウスは黙っていた。
「ルーカス様は薬を続けていれば、三週間以内に普通に食事ができるようになるはずです。六週間で日常の活動に戻れると思います。ただ——」
「ただ、何だ」
「再発の可能性が完全にないわけではありません。同じ種類の感染症にかかったとき、同じ免疫反応が起きる場合があります。その場合も、今回と同じ治療方針で対処できます。ただし、早く診ることが大事です」
「わかった」
私は立ち上がり、荷物を確認した。
「先生」とクラウスが言った。
「はい」
「先生を呼んだのは、最後の手段のつもりだった。王都が匙を投げた後だったから」
私は彼を見た。何も言わなかった。
「この辺境には、本物が少ない。位だとか称号だとかを持っている人間はいるが、実際に使える人間はごく限られている。先生は本物だ」
「ありがとうございます」
「礼を言う必要はない。そういう人間を見つけたら、それを伝えるのが私の流儀だ」
窓の外に、朝の光が当たり始めていた。
「エルダースに戻ったら、村の医療体制についてヨーゼフと話してほしい。あの村だけでなく、周辺の集落も含めた薬草の供給と、簡単な治療が受けられる体制を作りたい。先生の協力が必要になる」
「私にできることがあれば」
「エルダースに留まってほしい、ということだ」
私は少しの間、考えた。
エルダースに来てから一ヶ月。行き場を失って流れ着いた場所だったが、今は違う。マリアがいて、ハンスがいて、老人たちがいて、ヨーゼフがいる。私の「帰る場所」がある。
「留まるつもりです。最初から、逃げるつもりはありませんでした」
クラウスが、初めてはっきり笑った。
「ランベルトが言っていた通りだな。先生は、呼んで来てもらうものではなかったようだ」
「どういう意味ですか」
「本物は、自分のいるべき場所を決める。誰かに連れてきてもらう必要はない」
私はその言葉を、黙って受け取った。
否定も肯定もしなかった。ただ、何かがはっきりした感覚があった。
馬車がエルダースへ向かって動き出した。
城門の前に、クラウスとランベルトが立っていた。クラウスは手を上げた。礼の仕草というより、確認の仕草だった。
私は窓から手を振った。
山道を下るにつれ、城が遠くなった。
窓の外に、紅葉した山が続いている。昨日より峠の色が深くなっていた。
六日前と同じ道を、同じ方向へ戻っていく。でも何かが変わっていた。
言葉にするなら——この辺境に、一人、私のことを「本物」と思っている人間ができた。
それは聖女という称号でも、神殿の地位でもなく、実際に人を治したということへの評価だった。
私はそれを、十年かけても王都では得られなかった。
窓に頬を当てながら、私は村のことを考えた。
マリアは今日も薬草を分類しているだろうか。ハンスの腹の具合はどうだろうか。
馬車は山道を下り続けた。
エルダースに戻ったのは夕暮れ前だった。
村に入ると、子どもたちが走ってきた。
「先生が帰ってきた」
その声に、大人たちが家の前に出てきた。
離れの扉の前に、マリアが立っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
マリアが扉を開けた。部屋の中に薬草の香りがした。
「薬草の選別、全部終わりました。あと、三人、診察の予約が入っています」
「わかった。明日から再開する」
私は荷物を置き、部屋を見回した。
六日留守にしたが、きれいに片付いていた。マリアが管理していたのだろう。
「ちゃんとやっていたのね」
マリアが少し背筋を伸ばした。
「先生がいなくても、できることはやると思ったので」
「よかった」
窓の外に、村の夕暮れが広がっていた。
煙が上がり、灯りがともり始めている。私の帰りを気にしていた人たちが、それぞれの夜に戻っていく。
私は薬草の棚を確認しながら、明日の診察の段取りを頭の中で組み立て始めた。
エルダースに、戻ってきた。




