第5話「噂と嫉妬」
十月の末になると、予約は一週間先まで埋まるようになっていた。
患者の半分はエルダース村からではなく、峠を越えた集落から来ていた。最初は一人だった。それが二人になり、今は週に五、六人が隣の集落から問い合わせてくる。ゲルトの話が広がったこと、産後腰痛の女性の話が広がったこと、それからどこかで「王都の術師が匙を投げた患者を治した」という話が出回ったこと——さまざまな噂が混ざり合って、人を引き寄せている。
「先生」と、朝の薬草選別の最中にマリアが言った。「今日、午前にベルナー集落から来た男性の方が、来る前に別の先生に診てもらっていたそうです」
「どんな先生」
「オットー・ブレナーという方です。エルダースで二十五年診療されているとのことで」
私は手を止めた。
「その人が診られた後に、来ることになったの」
「はい。男性が言うには、「ブレナー先生では治らなかった」と言ったそうです」
私は再び薬草の選別に戻った。
「分かった。午前に診ましょう」
男性の名はエーリヒ・ラングといった。四十代半ば、農夫で、右膝に長年の慢性痛を持っていた。歩行時の痛みが強く、収穫の季節に仕事が続けられないという。
精霊視を当てると、膝関節内側の軟骨に薄い部分があった。長年の負荷が特定箇所に集中した結果だろう。腸脛靱帯の緊張も強い。これが膝の内側に余分な負荷をかけている。
「ブレナー先生にはどんな治療をしていただきましたか」
「温湿布と、動かし方の指導をしてもらいました。薬草の煎薬も。痛みは少し楽になる時期もありましたが、仕事の時期になると戻って」
温湿布と運動指導は間違っていない。的確な選択だ。ただ、腸脛靱帯の緊張が取れていない限り、根本的な負荷のかかり方が変わらない。そこへのアプローチが必要だった。
「同じ方向の治療を続けながら、腸脛靱帯という箇所の緊張を解くことを加えます。二週間ごとに来てください。三回ほど様子を見てから判断しましょう」
エーリヒが少し安堵したような顔になった。「治りますか」
「完全に元通りにはなりません。ただ、仕事の時期に働けるくらいには改善できると思います」
「それで十分です」
その日の午後遅く、人が一人、離れの前に立った。
五十代半ばに見えた。白髪混じりの茶色い短髪、厚い手のひら、日焼けした顔。薬草籠を持っていたが、患者として来た様子ではなかった。ただ立って、離れを眺めていた。
私が気づいた時、その人物は視線を私に向けた。
「アイリス・フォン・ヴァルテリアという方ですか」
「はい」
「オットー・ブレナーといいます。この土地で長く診療をしている者です」
私はうなずいた。名前には聞き覚えがあった。
「入られますか」
短い沈黙があった。ブレナーは籠を持ち直した。
「少しよろしいですか」
中に入ってもらい、椅子を勧めた。マリアが茶を持ってきて、目配せして外に出た。
ブレナーは茶に手をつけなかった。
「今日、エーリヒ・ラングが来たそうですね」
「はい」
「あれは私の患者です。十年前から診ています」
私は返事をしなかった。
「先生、私を責めに来たわけではありません」ブレナーが続けた。「ただ、何をされたか知りたかった。温湿布と運動指導では限界があることは、私も分かっていました。何かを見落としていたのかもしれないと思って」
予想と違う言葉だった。
「腸脛靱帯の緊張です」と私は言った。「膝の内側への負荷を増やしていました。そこに対してのアプローチが必要でした」
ブレナーが静かに聞いていた。「それは、どうやって見ますか」
「精霊視で確認しました」
「光治癒魔法を使うのですか」
「いいえ。体の生命の流れを視るだけです。治癒には古代治癒術の手技を使います。魔力は使いません」
ブレナーが初めて茶を一口飲んだ。
「エルダースに来る前はどこにいたのですか」
「王都の神殿です」
「神殿の聖女が、どうしてここに」
「追われました」
短い答えだった。ブレナーが少し目を細めた。それ以上は聞かなかった。
五分ほどの沈黙があった。
「ゲルト・シュルツのことも聞きました」と、ブレナーが言った。「五年間、私が診ていました。温湿布と鍼で痛みを抑えることしかできなかった。あれを動けるようにしたのは、先生ですか」
「はい」
「どうやって」
私は答えた。瘢痕組織の構造、固まった骨の角度のずれ、微細振動での介入、薬草との組み合わせ。ブレナーは時々うなずきながら聞いていた。途中で一度、「精霊視がなければできないのですか」と聞いた。
「精霊視がなければ難しいです」と私は答えた。「詰まりの位置と方向が見えなければ、どこに働きかければよいかが分からない」
「それは、習得できるものですか」
「時間がかかります。素質も要ります。マリアには教え始めていますが、数年はかかるでしょう」
ブレナーがしばらく何かを考えていた。
「私には、もう時間がないかもしれません」と、静かに言った。「五十八です。精霊視を一から習得するには、体の余力が要る。それより若い間に知りたかった」
私は何も言わなかった。
「腸脛靱帯へのアプローチは」とブレナーが続けた。「それは、精霊視なしでも、場所さえ分かれば手技を応用できますか」
「できます」
「教えてもらえますか」
それが予想外の展開だった。
患者を奪われたと怒鳴りに来た、という想定で準備していた返答が、出番を失った。
「教えます」と私は言った。「ただ一つ、確認させてください。教えるのは構いませんが、施術の対象はブレナーさんが診ている患者であることが前提です。私はエルダースの患者を奪いに来たわけではありません。私が診るのは、既存の治療では改善が見込めない患者だけにしたいと思っています」
「それは……」ブレナーが少し驚いたような顔をした。「分かりました。それは公平な話だと思います」
「同意していただけるなら、月に一度、施術の見学を受け付けます。患者の同意が取れた場合に限りますが」
ブレナーがうなずいた。
「一つだけ聞かせてください」と、彼は立ち上がりながら言った。「なぜ、そういう条件を出すのですか。私が同業者だとしても、知識を分け与えることに損はないはずです」
私は少し考えた。
「患者が望んで来るなら診ます。でも患者が望まないのに引き抜くつもりはありません。二十五年診てきたブレナーさんとの信頼関係は、私には作れない。それが価値だと思っているので」
ブレナーが、初めて表情を動かした。厳しい顔の中に、何か考え込むような色が混じった。
「エルダースに来て、どれくらいになりますか」
「三ヶ月弱です」
「……そうですか」
それだけ言って、ブレナーは籠を持って外に出た。
マリアが戻ってきたのは、ブレナーが帰ってすぐだった。
「聞いていましたか」と私は聞いた。
「少しだけ」マリアは少し赤くなった。「怒鳴られるかと思って、外で待ってました」
「怒鳴られませんでした」
「どんな話でしたか」
「施術を見学させてほしいという話です」
マリアが目を丸くした。「ブレナーさんが」
「はい」
しばらく、マリアが考えていた。
「先生は、怖くなかったですか。向こうは二十五年のベテランで、先生はここに来て三ヶ月なのに」
「怖い」と言う言葉の意味を少し考えた。
「いいえ。ブレナーさんは誠実な人だと思います。二十五年、この土地の人を診てきた。それは本物の積み重ねです。私には真似できない部分がある」
「でも先生の方が治せることもある」
「あります。だからこそ、向こうに敬意を払う必要がある。自分だけが正しいわけじゃない」
マリアがうなずいた。うなずき方が、何かを整理しながらのものだった。
「明日の午前の患者の準備をしましょう」と私は言った。「ゲルトさんが三週間ぶりに来ます。状態を確認したい」
「はい」
窓の外、山の木々が風に揺れていた。秋が深くなると、エルダースは夜が長くなる。炉の薪を早めに準備しておく必要があった。
三日後、ブレナーが施術の見学に来た。
患者は中年の農夫で、肩の慢性的な凝りと腕の痺れを訴えていた。診察の前にブレナーへ患者の同意を取ったことを確認し、部屋の隅に椅子を置いて座ってもらった。
精霊視の結果を口に出しながら施術した。詰まりの位置、手技の角度、力の強さと方向。ブレナーは一言も話さなかった。ただ、目が施術の手元から離れなかった。
一時間後、施術が終わって患者が帰った。
「頸椎から肩甲骨の間の緊張が主な原因でした」と私は言った。「そこが腕の神経を圧迫しています。二週間ごとに三回、続けてみます」
「精霊視がなければ」とブレナーが言った。「場所はどうやって特定しますか」
「触診で探せます。時間はかかりますが」
ブレナーが何かを書き取っていた。診察の間ずっと、小さな手帳にメモをとっていたらしかった。
「次はいつ見学できますか」
「二週間後に、この患者の二回目があります」
「来てもいいですか」
「構いません」
ブレナーが立ち上がった。帰り際に一度振り返った。
「先生」
「はい」
「あなたが来てから、エルダースの患者が治っています。それは事実です。私が同じことを言えていなかったことも、事実です。それを認めるのに三日かかりました」
私は何も言わなかった。
「それだけ言いたかった」とブレナーは言って、出ていった。
夜、記録を書きながら、私はランプの光の下でブレナーのことを考えた。
二十五年。それだけの年月をこの土地で積み上げてきた人が、三日で何かを認める。それは簡単なことではない。
王都にも、誠実な人はいた。ただ、誠実さだけでは体制は変わらない。評価される誠実さと、評価されない誠実さがある。
ブレナーは後者だったかもしれない。二十五年、エルダースの患者を温め、動かし方を教え、薬草を煎じてきた。それは地味で、でも確かな積み重ねだ。
私の古代治癒術は、その積み重ねの上にある。精霊視があれば詰まりが見える。しかしブレナーが二十五年かけて培った、この土地の人々との信頼関係は、見えるものではない。
どちらかが正しいわけではない。
窓の外で風が鳴っていた。今夜は冷える。秋の終わりが来ている。




