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【短編小説】13日の金曜日

掲載日:2026/02/16

 ブーーーーーーンンンン…………。

 おれが我に返った時、電車にすし詰めになった労働者たちのため息をひとまとめにしたような音と、諦観と捨てきれぬ反抗の震えを、まだはっきりとおれと言う肉体に伝えていた。

 ホッケーマスクの穴から眺める夜空はまるで他人事のように青く冷たい。

 その濃い群青色に魚の目のような月が、こちらを見ていた。

「あぁ、もうおしまいなんだね」

 おれの小さな声は、マスクの穴から出て白い煙になると、細い糸のように群青色の空に引かれていった。


「そう、もうおしまいだ」

 魚の目がおれに言った。

 やがて赤潮にも似た赤い光がおれを包むのだろう。

 その時におれは、もしかしたら少年であることを止めるのかも知れない。

 チェーンソーが呼吸を止めて、やがて静寂が辺りを包んだ。

 静かな群青だけが、そこにあった。

「カット!」

「お疲れ様です、今日はこれで撤収です!」

「エキストラの方々はこちらのバスに乗って下さい!」


 ある日、気がつくとおれは厄年の中年男になっていた。

 有限会社勤務、15年目。

 鏡に写る目は卑屈で狡猾そうな色で穿たれ、乾いた艶のない皮膚に浮かんだ脂が黒い光を放っている。

 合同説明会とお祈りメールに疲れたことを言い訳に怠惰な生き方をしてきたのは否めない。転職もせず、資産形成もしなかった。

 同級生たちからの連絡は彼らの結婚を機に減り、携帯を鳴らすのはお茶を引きそうな商売女だけだった。その商売女さえ、おれの名前を覚えちゃいない。


『最近会ってないから寂しいな』

 絵文字から先を見る前にメッセージアプリを落とす。黒い画面におれの顔が浮かぶ。恋人と育むべき時間を、金でスキップしてきた結果だ。

 風呂屋の女。

 飲み屋の女。

 名前も知らない奴ら。

 勢いのないぬるいシャワーで身体を洗い流す。昨晩買った女の甘ったるい香水と自分の脂汗が排水口に飲み込まれていく。


 作業着に袖を通してスクーターにまたがる。

 20万キロ近く走った割に遠出した記憶は少ない。家と職場の往復がほとんどだ。

 咳き込む老人みたいな音で走り出したスクーターは、今日もゆっくりと町の景色を流して行った。


 そしてその日、おれは疲れていた。

 少しブレーキが間に合わなかった。


 ありがとうございましたと目も見ずに言うコンビニ店員から冷たいままの弁当を受け取り、職場の休憩室に戻る。

 どの輪にも加わらず隅からテレビを見ていると、少女が轢かれて死んだニュースを放送していた。

 ニュースキャスターが現地で立ちリポをやった後、轢かれた少女の両親がインタビューに応えていた。

「犯人を赦すことはできない」

 顔を赤くして涙ながらにそう言う父親は、かつておれを虐めた同級生だった。


 それで、いいのだ。


 今まで意図的に開かなかったSNSアプリで同級生たちの動向を探った。

 おれと同じように長期間ログインしていない奴ら、大手に勤めた奴ら、自営をしている奴もいたし薬で施設から出たばかりのやつもいた。

 おれを虐めた奴らにも色々いた。

 最初はイベントを企画して羽振りよくやっていたが、不景気に煽られて行方をくらました奴。

 激務で精神を壊して味覚障害になった奴。

 そいつらを除外して、結婚した後に子どもがいる奴らをスクショに撮った。

 あいつらが便所の床に転がるおれをスマホで撮っていた時も、いまのおれと同じような気持ちだったのだろうか。


 おれの青い春を赤黒くして笑ったやつらの大切なものを壊してやろう、そう考えるとおれは気分が良くなった。

 お茶引きの商売女たちに愛想よく返事をして家を出た。すれ違う地域住民たちに「こんばんは!」と挨拶をして、コンビニでは煙草を買うついでに店員に差し入れを買って押し付けた。

 コンビニを出て見上げた群青色の空には、魚の目みたいな月が浮かんでいる。

 その目がおれに勇気を与えてくれた。


 その少女は髪が綺麗だった。おれを笑った男みたいに。

 その少年は足が長かった。おれを殴った男みたいに。

 その少女は声がよく通った。おれを詰った男みたいに。

 その少年は、少女は。おれを、見た。


「え?なんですって?」

 おれが顔を上げると、灰色の卓を挟んで向かいに座った中年の男が和かな顔とは裏腹に、低い声で「だからな、人違いだったんだよ」と言った。

「人違い?」

「あぁ。お前が殺したのは、お前が狙っていた子どもの同級生だよ」

 群青色の町に散らばった女の子は、そういえばあいつと似ているところはひとつも無かった。

「誤チェストでしたか」

 締まった喉で引き攣るように笑うおれを、若い男が殴った。

 おれは取調室の床に転がり、自分が疲れていたことを知った。

 そうだ、おれは疲れた中年男だった。


 マスクが欲しい。あの穴から見る光は、この部屋は、どんな風だろう。

 あの景色は指の間から恐る恐る覗いた景色に似ていた。

「おれはもう、少年じゃありませんでしたね」

 取調室の蛍光灯がそうだと肯定するように、ブーンと鳴った。

 その冷たい床に散らばった女の子たちの顔が、かつてのおれみたいな目でこちらを見ていた。


「どうしたの?」

 商売女が心配そうな声で訊く声を聞いて、おれは白い春と疲れが排水口に流れてくのを見ていたのに気づいた。

「すこしぼーっとしてたな」

 おれが笑うと、馴染みの薄い商売女も曖昧に笑った。同級生の嫁が商売女をやっている。それを金で買う、おれにはその程度が関の山だ。

 商売女がおれを口に含む。

 おれは目を閉じる。

 もう、誰もおれを見ていない。ずっとだ。

 


 女を送り出した群青色の空には、死んだ魚の目みたいな月が張り付いて、どこを見ているのか分からない光を落としていた。

 やがて赤いランプたちがこちらに向かってくるのを、すこし期待していた自分に気がついた。

 チェーンソーのワイヤーを引いたが、エンジンは始動しなかった。血の付いた刃はランプみたいに回って光らなかった。それにサイレンはブーーーーーーンと鳴らない。

 でも彼らは、おれを見る。

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