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第二章 一ノ谷来栖の女装で世界はほんの少しだけいいほうへ変わる 3

 梶原は来栖から駅へ視線を移し、息を吸い込んだ。手早く髪を手櫛で整え、外見を一瞬でベストコンディションに持っていく。

 何人かの通行人が、なにごとかとこちらに視線をやっている。

 梶原にすれば、事情が呑み込めないまま始まった妙な勝負だったが、実はこの時すでに、彼には勝算があった。


 おそらく道行く人々は、この勝負を、ユーチューバーかなにかの企画だと思うだろう。

 面白がって参加する者もいるかもしれない。

 その場合、来栖の美貌は、大きな武器だ。それは分かる。


 だが問題は、美しさの前に、二人の性質の違いだった。

来栖は一見、女性に見える。もう日は落ちかけており、薄暗い中ではなおさらだろう。

他方、梶原はどう見ても男だ。しかも、かなり格好いい部類に入る――という自信がある。


 一般的に、いわゆるナンパの場合、男性が女性をお茶に誘うものだ。別の例もあるのだろうが、数で言えば前者が圧倒的に多いだろう。

 つまり、格好いい男性(自称)である梶原が女性に声をかけるのは特段不自然な行為ではないので、女性がいくらかあつまる可能性は高い。

 一方、来栖が同じようにしても、公開逆ナンパなんてそうそうあることではないから、その一声で男性がわらわらと集まってくるとは考え難い。皆無ではないかもしれないが、数は少ないはずだ。


 来栖が女装男子であるということが分かれば、美しさに物珍しさも手伝って、来栖が有利になるかもしれない。

 だが今回は、声をかけられるのは一人につき一回ずつだ。それも来栖は、男の声で。時間をかけて、来栖がどういう属性の人間なのかを他人に理解させている余裕はない。

 通行人が戸惑っているうちに、梶原は、興味本位であれ何であれ寄ってきた女の子たちを囲い込んでポイントにしてしまえばいいのである。


 つまり。


(墓穴を掘ったなー、来栖くん! 君の、限界まで女性に寄せたその美しさが、君の首を絞めるんだ! これでもう、君はおれの彼女だぜ)


 梶原は、大きめの声で言い放った。


「はーい、道行くみなさん! おれとお茶でもどうですかー!」


 張りのある、いい声。目力を込めて、背筋も伸ばす。

 人好きのする笑顔に、髪の手櫛セットも完璧だ。

 なにしろ赤の他人が相手なのだから、こんな一声で何十人とは言わない。

 だが、十数人程度は来るだろう。おれが、格好良さマックスで呼びかけたのだから。

 梶原は胸中でほくそ笑んだ。


 だが。


 誰も寄って来ない。

 突然過ぎて、みんな戸惑っているのか。

 いや、そういうことでもない。

 なにか違和感がある。


 家路を急ぐ人々ならともかく、目の前をそぞろ歩いているのは、そこそこ時間に余裕のありそうな学生ばかりだ。

 なのに、いきなりこんな奇行――奇行であることは梶原も認めざるを得ない――を披露されても、誰も梶原に視線を送ってすらいない。

 人々の見る先は、梶原から微妙にずれたほうへ集中していた。

 通行人の多勢を占める、男子学生や女子学生も。それ以外の、老いも若きも男も女も。


 おそるおそる、梶原もそちらを見る。

 そこには、腰に手を当てて立つ、一ノ谷来栖がいた。


「な、なんでだよ!? 今呼びかけたのはおれだぞ!? この来栖くんは、まだなにも言ってないのに……」


 来栖が、両手を広げて言った。


「みなさん。もしお時間あったら、おれとお茶でもいかがですか?」


 それまでの静寂が嘘のように、場がわっと沸いた。

 ざっと見て、三十人近い人間が殺到してくる。


「行くー!」「行きます!」「連れてってください! いえ、それともお連れしましょうか!」「えーどうしよ、こんなカッコで!」「あたし、お茶のおいしいお店知ってます!」「凄い、お姉さん、え、お兄さん!? なんか光ってる!」


 梶原は、自分とは打って変わって大盛況となった来栖を囲む人の群れを、呆然と見ていた。

 ふと、来栖がこちらを向く。


「梶原先輩。勝負あり、ですね」


「な……なんでだよ。おれだって、かなりいけてるはずだ。負けるにしたって、こんな、百かゼロかなんて決着のつき方、おかしいだろ……。あ、ま、まさか、サクラ!? 仕込んだのか!?」


 来栖は、ゆるゆるとかぶりを振った。


「そんなことしませんよ。する必要もない。だって、ここにいるみなさんには――」


 来栖が、ぐるりとあたりを見回す。


「――梶原先輩が見えていないんですから」


「見えて……ない……?」


「ご存じでしょうが、人間の目は、明るいものを見ると虹彩による調節が行われ、瞳孔が縮まります。それによって、必要以上の光を入れないことで、まぶしさを軽減するのです」


「……あ、あー。猫とかでも見たことあるなー。……そ、それが?」


「つまり!」


 来栖は、びしいと手のひらで梶原を示した。


「これは、きわめてロジカルかつ物理的な帰結です! おれの輝きによって瞳孔が縮まった皆さんには、おれに圧倒的にまぶしさで劣るあなたは、目に入らないんですよ! そこにあってなきがごとくね!」


 梶原の耳に、聞こえるはずのない、自分のプライドがガラスのように砕け散った音が響く。


「な……なきがごとく……!? こんなにかっこいいおれが!? う、うそだ! そんなことがあるはずがない! ……ばかな……ばかなー!」


 梶原が、愕然としながらアスファルトに両膝をついた。


「現実を見てください。今この場に、あなたを格好いいと思っている人間は一人もいない。あなたは、全然いけてないんです。もう一回言いますね。あなたはおれに比べれば、全ー然いけてません! 話にならない! 比べ物にならない! とにかく、全っっっ然ダメ! ってわけですよ! ……さて、じゃ、おれはこれで」


「な!? なんだよ、言いたいことだけ言って、ど、どこに行く!?」


「当然、こちらのみなさんと、お茶を飲みにですよ。まいったな、この人数で入れるカフェとかあるかなあ?」


「ま……待ってくれー!」


 背中を向けかけた来栖が、半分だけ振り向いた。


「なにか?」


「な、なんだったんだよ!? おれをわざわざ呼び出して、なんか楽しいことあんのかなって、おれすげえうれしかったんだぜ!? それでいきなりこんなことになって、なんでおれをこんな目に遭わすんだよ!? ちきしょう、ちょっと外見がいいのを鼻にかけやがって! 性格悪すぎだろ!」


 来栖が、片方の眉をぴくりと上げた。


「ちょっと?」


「あーあーたいそう! たいそう外見がいいけどもな! とにかく、こんな仕打ちおかしいぜ!」


「でも、あなたもやったんだろ? わざわざ告白して、楽しく交際して、うれしい気持ちにさせて、そこにいきなりひどい仕打ちをした。恋人同士がくっついたの離れたなんてのは、世の常だ。それをとやかくは言わないよ。でも、やっていいことと悪いことがあるってのは、分かってくれたよな?」


 ……あ? と梶原は、立ち上がりかけた格好で固まった。


「そ、……それは、……なんでそのことを。美乃梨と、知り合いなのか……?」


「おれは、友達だと思ってる。とはいえ別に、意趣返しの代行をかって出たわけじゃないよ。ただ、おれがあんたにこうしてやりたかっただけだ。恨んでくれても構わん。ただその前に、自分のしたことだけは振り返って欲しいけどな」


 がく……と、梶原が膝をついた。わなわなと震える自分の両手を覗き込んでいる。 


「そ……そうか……おれは……。見た目がかっこいいってのは、すげえことだけど、それをいいことに人を傷つけるなんてことは……やっちゃいけなかった……のか……なんてこった……こんな形で……思い知らされちまった……」


 言葉にすれば、当たり前過ぎた。

 梶原も、おそらく、理屈としては分かってはいた。

 ただ、自分のしたことを、そうした相手を、顧みなかったからそれと気づかなかった。

 今、この時までは。


「来栖くん、君は……それをおれに分からせるために、こうして……?」


「そうです。あなたの格好よさなんて、大したものじゃない。少なくとも、罪もない女の子の心を傷つける理由にできるほどのものではないのに。思い上がるのは滑稽ですよ。おれはあなたが滑稽だと、そう伝えたかったんですよ。だって滑稽ですから」


「言葉の端々にすげえ棘があるけど、確かに……そうだな……。自分の勝手で彼女を傷つけたおれと、友達のために一肌脱げる来栖くんの……違いか……。それを可能にするだけの美しさ……おれが手を出せるものじゃ、最初からなかったんだ……まして、張り合うなんて……おれはなんて愚かだったんだろう……」


 そして、草原を行く動物の群れのような一団は、来栖を先頭にして移動を始めた。

 後には、ぼんやりと座り込むアッシュグレーの髪の男と、話が聞こえなかったためなにがなんなのかさっぱり分からない三人を残して。



「そういうことだったんですね……」


 あやめはサンドイッチの中の煎り玉子を落とさないように気をつけつつ、そうつぶやく。サンドイッチの入っているバスケットのような弁当箱の横には、缶詰からあけたらしいみかんや桃が、プラスチックケースに入って添えていた。


 翌日、昼休みに集まった四人は、中庭の木の下でベンチに座り、弁当を広げていた。傍目には男一人と女三人に見えるが、実際は二対二である。

 この地方は初冬でも比較的温暖なので、晴れている日は屋外でも過ごしやすい。この日は風もなく、太陽は冬ならではの低い角度から、木の枝の下へ陽光を差し込ませてくれていた。

 少し離れた芝生の上では、ソフトボール部の一年生らしい女子がキャッチボールをしていた。

 その球の行き交いを眺めながら、来栖が答えた。


「まあな。長引かせれば妙な関係性が生まれちまうかもしれないから、スパッときりよく決着つけるには、一番いいやり方かなあと」


 静二が、黒いプラスチックの弁当箱の中の唐揚げをつつきながら、


「でも、思うとおりにいかなかったらどうするつもりだったの? クルスにそんなに人が集まらなくて互角だったり、梶原先輩にもそこそこついてくる人がいたりしたら」


 来栖は、ラップに包んだおにぎりの山椒じゃこを見てほくそ笑みつつ、当たり前のように言う。


「そんなことになるわけないだろ。空中にりんごを放れば落ちてくるのと同じで、きわめてロジカルかつ物理的な帰結だ。ほかの結果になんて、なりようなんてなかったさ」


「うん……そうか……そうだね……」


 なぜか冷めた視線を送ってくる静二が気になりつつも、来栖は食事を続けた。

 美乃梨は、朱塗りの木製の弁当箱の中にこまやかに詰め込まれたおかずをていねいに箸で取るのを一度止めて、ぺこりと来栖に頭を下げた。


「クルスくん、ありがとう。私、強がってても結構みじめな気持ちがあったんだけど、ちょっと胸がすっとしちゃった」


「いや、本気で君の敵討ちみたいなことをやろうとしたら、あんなもんじゃ済ませなかったけどな。ま、あれでいいところもあったらしいから、これを機に反省してくれればいいんだが」


 その時、傍らから、わっという悲鳴が聞こえた。

 キャッチボールのボールが逸れて、一人の女子がそれを無理に取ろうとし、花壇のレンガにつまづいたのだ。

 来栖と静二はとっさに立ち上がったが、距離が二十メートル近く空いていて、とても間に合わない。

 したがって、


「おっと!」


 と言いながら、スライディング気味に滑り込み、転びかけた女子をしかと受け止めて助けたのは、別の人物だった。



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