第五章 一ノ谷来栖は恋をする 5
冬の日暮れの気配が、だいぶ濃くなっている。
空には雲がなく、一面の乾いた青色が高く広がっていた。
「お。コーヒースタンドがある。寄っていいか?」
「あ、はいもちろん」
来栖はダージリンを二つ買うと、カップを一つあやめに渡した。
「わあ、あったかいです。あの、お金」
ちろり、と来栖があやめを軽くにらむ。
「まさか、払うつもりじゃないだろーな」
「は、払いますよ、それは」
軽く押し問答の末、結局来栖のおごりで押し切った。
「それはそれとして、本っ当に悪い。クリスマスに会えたのに、手ぶらだなんて」
「い、いいんですよそんな! 私もそうですし」
繁華街から離れても、大通りには絶え間なく人が行き交い、街路樹には電飾が巻かれていた。
「うう、しかもおれさっきまでモールにいたのに、なにも買ってないとか間抜け過ぎ……あれ?」
歩道で、ふと来栖が立ち止まる。
「どうかしましたか?」
「あやめは、なにか買い物があったんじゃないのか? だからあそこにいたんじゃ? おれ、邪魔しちゃったかな」
慌て出す来栖に、こちらも慌ててあやめが言った。
「い、いえいえ、私があそこにいたのは、クルスの――」
おれの? と来栖が自分を指さす。
「――クルスの……は、はい、そうですね、その……プレゼント的なものを、買えたらと」
「え」
来栖が立ち止まる。あやめも、二歩ほど遅れて同じようにその場で止まった。
「おれの?」
「はい」
「お、おれもだよ。あやめになにかプレゼントできたらと思って。前もってほしいものとか訊けたらよかったんだが、……っていうか最近あやめ、おれのこと避けてたよな?」
「うっ!? は、はい……」
「どうして」
「だ、だって、それは避けてしまいますよ。クルスにあんなこと言われて、私、どうしたら」
日が急激にかげってきた。早くも月が高く出ている。
誰彼時というもので、道行く人がシルエットになり、誰が誰なのか判別できなくなる。
クルスは、軽くあやめの手を引いて、路地に入った。
左右をレンガの壁に挟まれた、細い路地だった。奥は行き止まりらしく、人が通る気配はない。
抱きしめてしまわないように気をつけながら、あやめにビルの壁を背にして立たせる。
わずかな光量でも、顔を近づけると、お互いの顔ははっきり見えた。
「どうにだって、したいようにしたらいいじゃないか」
「い、いいいいいいえ、そんな」
「おれはずっとあやめのことを考えてた」
瞳をのぞき込まれたあやめの手から力が抜けて、紅茶の紙コップが落ちそうになる。
それを、来栖が手を添えて支えた。
あやめの小さな右手の甲を、来栖の左の手のひらがすっぽりと覆う。
「そ、んなの……私、だって……」
来栖は、あやめから香るほのかなシトラスの香りをかいでいた。
あやめは、来栖から漂う淡い花の香りをかぐ。
先日の駅の時と同じだった。まだ伝わるはずのない体温が、お互いに、確かにそこにあるのが感じられる。
「あやめは、今日もおれを守ってくれたな」
「い、いえあの、守ったというか、すれ違いになったらいけないと思って、つい」
「誰が言ったんだったかな。誰かを守るのは、守られる者にそれだけの価値があるからだと。……おれは、あやめにとって、価値のある人間か?」
あやめが答えようと息を吸う前に、来栖が続けた。
「おれにとって君が、そうであるように」
あやめが吸った息が、しばらく止まった。そのせいか、顔の温度が急激に上がるのを感じながら、あやめは、何度もこくこくとうなずき、ようやく息を吐く。
「あやめ。一つ、謝ることがある。おれが君を好きになりかけているというのは、嘘だった」
びくん、とあやめの華奢な体が震えるのが、来栖がつかんだままの小さな手の甲から伝わってきた。紅潮していた少女の顔から、すうっと血の気が引いて白くなっていく。
「そ、そうですよね。そうですよ。クルスが私なんかを、こんな地味な子なんかを、そんなわけ」
「今日確信した。つかささんが言っていたように、あやめは凄くかわいいよ。だから、見た目が理由で君を好きになる人間は少なからずいるだろう。でもおれは、君の人間性も外見と同じくらい魅力的だと思っている」
「いえ、わ、私は、そんなこと」
「好きになりかけてるんじゃない。とっくに好きだった。君が好きだ、あやめ」
真剣な顔でそう告げる来栖の顔は、おぼろげな月光に照らされ、まるで白い花びらで作られたしなやかな獣の像のようだった。
つややかで、しなやかで、凄味とたおやかさが合わせ持たれ、あやめがこれまでに見てきたものの中で最も美しい造形だった。
「く、……る、す」
あやめの目に、涙が込み上げてきた。
だがそれに耐えて、あやめは言葉を絞り出す。
「だ……だめですよ、私なんて、全然クルスと吊り合わなくて、だめなところたくさんありますし、もっとほかの」
「ほかの誰より、君がいい。信じて欲しい」
とうとう、あやめの頬を涙の雫が滑り落ちた。
「君がおれを高く評価してくれてるのは分かった。……でも、君も見てきたよな、ここのところおれが世話を焼いた何人かの男を」
「え? は、はい。そうですね、梶原先輩とか、佐竹くんとか、吾妻くんとか……」
「あいつらは、おれから見てあまり男として魅力的ではなかった。でも、あいつらにある欠点は、どれもおれにも思い当たるところがあった。他人、特に気に入らない人間には横柄で、自信がある分ナルシストで、自分に向けてもらえる好意を軽んじるところがあって、……」
「そんなの、程度問題で、誰でも当てはまることじゃないですか? クルスが気にするほどでは」
「いや、おれは思い上がったガキだったよ。嫌なやつだった。……でも、変わりたいと思った。君に振り向いてもらうために、内面を磨かなくてはならないと。外見は、どう考えても問題ないわけだからな……」
来栖が目を閉じ、首をくなくなと横に振る。
「……なんともクルスらしいセリフですねえ……」
なぜか若干落ち着いたらしいあやめに、来栖は再び目を開いて言う。
「この間の話だと、おれの好感度は当初よりずいぶん上がったらしいな? それはおれの美貌と、無関係ではないだろ? 少なくとも、遠巻きにして噂程度にしかおれのことを知らなかった頃とは、ずいぶん違ったはずだ」
「ま、また自分で美貌って言ううう……。それは、ありますよ……いつもいつも間近で、クルスを見ていたら……いくら冷静であろうとしても、風邪を引いたら熱を自力で下げられないようなもので……。だから、危険だと……」
「……でも、彼氏にしたいくらい好きになるほどのものではない、か?」
あやめが、それまで頼りなく揃えていた足をわずかに開き、肩幅ほどまで広げた。姿勢を安定させて、きっと来栖を見上げる。
「わ、私だって、外見だけで人を好きになると思われたくありません! ……特に、クルスには……」
「そんなふうに思ってるわけじゃない。だがおれは、見た目で人を好きになることが、そんなに悪いことだとも今は思ってない」
落ち着いた声でそう言われ、あやめは、昂りかけた心を静めようとする。
そこへ、傷ついたガラス細工を手に取るようないたわりを込めて、来栖が告げた。
「見た目の美しさで優劣をつけられたり、その美を理由にひいきされるのは納得がいかないと、今までに何度も言われてきた。これからも言われるんだろうな。おれだって、そんなのはよくないと思う。だが、それなら、事実他を圧して美しく生まれてしまった者はどう生きていけばいいんだ?」
息をのむあやめを前に、来栖は続けた。
「おれは自分が大切だ。おれを大切にしてくれる人も大切だ。だから自分を卑下して生きていきたくはない。おれの美に目がくらんだ彼女持ちの男にどれだけ告白されても、その彼女に詫びながら生きたいとは思わない」
来栖が、いくつか脳裏に浮かび上がって来た苦い思い出に、一旦言葉を切る。
特に色濃く思い出されたのは、やはり――
「……つかささんにだって、悪かったとは思うさ。でもそれは、おれが彼女の暴挙の原因になった点においてであって、おれに罪があるとは思ってない。……その生き方自体が人を傷つけるというなら、どうすればいい?」
あやめの左手が、彼女の右手を包むクルスの左手にそっと添えられた。
「……答えの出ない問いだっていうことは、分かります。……苦しんできたんですね、クルス……」
「そうだよ。なんとも思わないわけがないだろう? 苦しかったさ。だから、逆だ。後ろめたく思うんじゃなく、自分の美を誇る。そう決めたんだ。……そういうわけで、君がおれを好きになってくれるのであれば、見た目が理由で全然構わない。まったくもって誇らしい限りだ」
あやめは、困ったように笑った。
「……やっぱり、クルスらしいです」
「そうだろ? ……おれは、あやめが望む限り果てしなく、ずっと美しくあり続けてみせるよ。君が目にするどんな人よりも、どんなものよりもだ。だから――」
一音一音を慈しむように、来栖が告げた。
「――だから、おれとつき合って欲しい」
それからしばらく、二人の周囲から音が消えた。
誰もいない路地には、表の雑踏も、車の音も、クリスマスの喧騒も届かない。
あやめが、ぽつりと言う。
「私のどこが……いいんですか?」
「繰り返しになるから端的に言うが、外見と中身だ」
「もう……買いかぶりにも、ほどが……」
「ん……答えてもらえないところを見ると、まだおれの美が不足して――」
あやめの左手が、来栖の左手から離れて、彼いわく他を圧する美貌の、右頬に添えられた。
「充分です! 美しさは、充分……、で、でもなんで、見た目のことばっかり言うんですかっ。私だって、クルスの人柄が好きです。私も嘘をついていました、いえ、嘘になってしまいました。好きにならないなんて、嘘。好きです。私も、クルスが好き。クルス、わ、私と――」
来栖が、紙コップを持ったままの右手の指を伸ばし、頬にあるあやめの左手に添える。
「うん」
「――私と、つき合ってください。好きです……!」
二人のすぐ横に、レンガの壁から十数センチほど飛び出た段差があった。
来栖は自分とあやめの紅茶をそこに置くと、最後の自制心を使い果たし、恋人の体を抱きしめた。
「よろこんで」
ただ一人にひたむきに向けられた想いは、来栖の体を野放図に光らせはしなかった。
ただ、どこまでも優しく深い温もりに代わって、あやめの体を包み込んでいった。
二人は、手をつないで路地を出た。
すっかり暗くなった空の下、今までよりも、ずっと世界が広がったように思えた。
冷めてしまった紅茶を飲み干すと、来栖が、
「どこか、開いている店に寄ろう。モールに戻ってもいいし。なにか、思い出に残るものを贈りたいんだ」
と言って駅のほうへあやめを促した。
「はい。私もです」
初めて二人で過ごすクリスマスイブの夜は、こうして始まった。




