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第五章 一ノ谷来栖は恋をする 4

 つかさが数歩前進した。

 二人の距離は、二メートルほどになる。


「それとね、こんなに恵まれた男の子を、傷つけたかったんだよ。都合よく流される、しょうもないやつだって証明したかったし、無邪気な君にも思い知らせてやりたかった。……でもそうかあ、傷つかないかあ。いいね、男は割り切れて」


「女の人のほうがそういうことには繊細でしょうけど、今のはおれの話です。男かどうかで納得しないでください」


「でも、日本では女より男のほうが全然単純な甘えん坊なのは確かだよ」


「その言い方は、単純でも甘えん坊でもない男を傷つけますよ。立派な人間ほど損をすることになる。自分が属さないマイノリティこそ尊重すべきだ、って教えてくれたのはつかささんじゃないですか。甘えん坊の男が日本で多勢であると思うなら、だからこそそんな言い方すべきじゃない」


 つかさが軽く背を反らした。


「ははあ、言うねえ」


「どうしたんです」


「なにが?」


「こんな浅薄な話を、あなたがわざわざしに来たなんて思えないな。論点もがたがただ。思いつきでしゃべったでしょう。本題はなんです?」


 数呼吸ぶん、沈黙した後。


「そうだねえ。クルスくんの顔、叩いていい?」


「理由によっては」


「敵だって言ったでしょ。だから攻撃したいの。あたしを傷つけるそのきれいな顔を、傷つけたいな」


「いいですよ」


「いいんだ?」


「つかささんの性格を考えると腑に落ちないところはありますが、納得はしました」


「……そういうところがさあ」


 つかさが二歩ほど歩く。

 手の届く距離まで来た。


 来栖が、自分の左頬を指先でとんとんと叩く。

 つかさが、肩が上がるほど息を吸い込み、右手を振り上げ、やじ馬たちがヒュッと息を飲んだところで――


「待ってくださいっ!」


 遠巻きの人波をかき分けて、一人の女子高生が来栖たちの間に飛び込んできた。

 来栖が、自分に向けられたその小さな背中に向かって叫ぶ。


「あやめ!?」


「あ、あなた、この間クルスくんと一緒にいた……」


 ぜえはあと乱れた呼吸を整えもせず、あやめがつかさに向かって言った。


「だ、壇ノ浦あやめですっ。そ、そんなことをしても、クルスはあなたを嫌いにならないし、軽蔑もしません!」


「なっ……」


 たじろぐつかさを尻目に、来栖はあやめの横に出た。


「あ、あやめなんでここに……っていうか、話聞いてたのか? ……嫌いとか軽蔑って、なんだ?」


「話は聞いていました。途中からですけど」


「どのへんから」


「偶然じゃない、のあたりです」


「めっちゃ最初のほうからだな……」


 あやめはつかさのほうを向き、ゆっくりと言った。


「つかささん、ですよね。今のは、全然よくないです」


「……あなた、クルスくんの彼女? 事情も知らないのに――」


「知らなくても分かります。つかささん、どう考えても、謝りに来たのですよね」


 え、と来栖が、あやめの後頭部とつかさの顔を見比べる。

 ふ、とつかさが息をついた。


「最初から聞いてたのに、分からなかったの? あたし、謝りに来たんじゃないってはっきり言ったよ」


「いえ、お兄さんじゃなくて、クルスにです」


 来栖が目を見開いた。

 つかさは、動きを止めた。


「違いますか、つかささん……」


 おそるおそるのように見えてはっきりと、あやめが問う。

 観念したように、つかさが答えた。


「……違わない。当たり。やるじゃん。でも、いざ目の前にしたら、全然だめだったね」


 来栖が、戸惑いながら言う。


「なんですか、それ? おれには謝る必要なんてないですよ。それでもあの時のことを謝りたいっていうんなら、そう言ってくれれば……」


「だってクルスくん、謝ったら、君の性格じゃ、それだけであたしを許しちゃうでしょ。あたし、凄く悪いことしたのに。それで訊いたら……傷ついてないっていうから、よかった、って……あとはもう、この人変な女だったんだなって、たまたまそんな人に出会っちゃったんだなって、そう思ってくれたら……怒ってるっていうから、そのまま、嫌ってくれたらって……」


 来栖は、つかさが、話しながら泣いているのかと思った。

 しかし、彼女の眼に涙はない。

 周りには相変わらず大勢の人間が集まっている。

 こういうところで決して泣かない人だった、ということを来栖は思い出す。その気高さを見習おうと思ったことも。


「……あやめの言う通りです。叩かれたって、嫌いになんてなりませんよ」


「どうして」


「叩きたいのであれば、甘んじて受けますよ。男にできることなんて、そんなもんです。ほかには、そうですね、……これは言わずにおこうと思いましたが、少しでもつかささんの気が晴れれば。つかささんの、前カレなんですけど」


 いきなりなんの話かと、つかさがきょとんとした顔になる。


「例の、やたらと顔がよかったっていう彼ですよ。つかささんの同級生なら兄さんも知り合いかと思って、探りを入れたらあっさりと氏名が分かって」


「ああ、確かにあいつとは空須も顔見知りだけど。……名前が分かって、それで?」


「つかささんをつらい目に遭わせたのが、許せなかったので」


「……ので?」


「倒しに行きました。女装した状態で声かけて、のこのこ着いて来たから河原までおびき出してけんかしました。まあ当時は本格的に女装に目覚める前だったんで、女装っていってもウイッグかぶったくらいでしたけど。服もユニセックスな、適当なもんでしたし」


「な……!?」


 つかさが口をあんぐりと開け、あやめもこちらを振り返る。


「あ、勝ちましたよ。ちゃんと女装を解いて、男として一対一で、正々堂々と。一方的なつかささんの証言だけを信奉するのもまずいんで、ちゃんとあいつがつかささんにどんな仕打ちをしたのかは本人にも確認しましたし」


「い、いやそれ以前に、そ、そんな危ないことなんでするの! ていうかあいつ身長結構あるし、あの時のクルスくんよりずっとけんか強いでしょ!?」


「ふっ。おれもそう思っていっとき、空手道場に通ってたんですよ。で、圧勝しました」


「い、いや、だからいいとは思わないけど……そ……そっか……クルスくんは、けがしたりとかは……」


「全然。女装やめてもあいつおれに見とれてぼんやりしてたから、二三発はたいたらあっさりダウンしました。つかささんに惚れちゃうだけあって、やつはやつで面食いなんでしょうね」


 絶句しているつかさをよそに、あやめが来栖を上目遣いに見ながら言う。


「……クルスって、やんちゃそうな男の人にも堂々としてますけど、相手が逆上して取っ組み合いになってもけんかで勝てるっていう自負が、根底にあるんでしょうか」


「ああ、まあ勝てるとまでは言わんが、それなりの抵抗はできるだろうなとは思ってるかな。これはそこそこの体格がある男なら、割とそうかも。女子は、そうはいかないもんなあ」


「そうですね……。でもクルスだったら、いっそ光ってしまえば、その元カレさんとの闘いももっと平和的に勝利できたのでは」


「いや、あれできるようになったの、っていうか自覚したのが割と最近なんだぞ。おれだって光れるもんなら光ってるさ」


 そんな会話をしている間、来栖の意識は当然、あやめに向かっていた。

 だから気づかなかった。

 いつの間にか、つかさが、深々と頭を下げている。


「うわ、つかささん!? どうしたんですか!?」


「あたし、知らないことばっかりだね……そんなこと、してくれてたなんて。ありがとう。そして、……本当にごめん。ごめんなさい」


「いや、あれはおれが勝手にやったことですから! 頭上げてください! ……ちょっとは、胸がすきましたか?」


 頭を上げたつかさが、微苦笑している。


「ちょっとね。……あたしが君に言ってきたことは、全部本当だよ。クルスくんがきれい過ぎて、勝手に苦しくなってたのも本当。君をあたしの好きにしたかったのも、汚してやりたくなったのも本当。傷つけてやりたいって思ったのも、本当。……あたしが、あいつにされて凄く嫌なことだったのに、君に同じことしちゃった。大切に扱うべき人を、気持ちをないがしろにして、勝手に傷つけて……あたしって、……」


「でも、おれに申し訳ないと思ったのも、悔やんでいるのも、本当……ですよね」


「クルスくん。……そうだよ。あんなにひたむきに慕ってくれた子に、あたし……」


 つかさの瞳が、苦しそうに揺れた。


「おれのことなんて、本当に気にしなくていいんです。おれは、多少――いや、大変に、見た目は秀でているかもしれない。それでもあまりに不完全、欠点ばかりだ。ままならない思いばかり抱えてる。だからつかささんの、褒められたもんじゃない気持ちも否定できません。あなただって苦しんでて、……それなら、救われるべきなんだ」


 耐えきれなくなったつかさの目から涙がこぼれた。

 雫が頬を伝い、一つ二つと、上質な生地のトップスに吸い込まれていく。

 他人の前で泣くつかさを、来栖は初めて見た。

 同時に、兄のなく背中を思い出した。


「兄さんには、会うんですか?」


 つかさがかぶりを振った。


「ううん。もう、あたしが空須にしてあげられることはないから。……冷たいようだけど、さっき言った、どんなに一方が好きでも別れてしかるべきっていうのも本当なんだ。空須も納得してくれたし、別れたことについては罪悪感も持ってない。だから空須とも、……クルスくんとももう会わないつもり。……許せないかな?」


 来栖が、つかさの目を見る。

 この瞳を真正面から見るのは、これが最後なのだろうと思いながら。


「許せませんね。でも、だからといってつかささんに理不尽に苦しんで欲しいとも思わない。おれたちと離れても、幸せになって欲しいです」


 つかさの口元が、かすかに笑みを作った。

 これまで抱え続けていた重荷が降ろされて、少しは口角も軽くなったのかもしれない。そうだといいな、と来栖は胸中でひとりごちた。


「私、さっきまで君のこと、敵って言ってたのに?」


「敵だったら、幸福になってはいけないんですか?」


「……そうだね。あたしも君に幸せになって欲しい。でも、敵じゃなかったらもっとうれしい。敵なんて言うんじゃなかったな」


「おれはあなたをそんなふうに思ったことは、一度もないです。おれたちはいっとき、同じ場所で、同じ話をして、同じように笑い合っていたんですから。……今日まで、おれのことを探し続けてくれて、ありがとうございます」


 つかさの涙は止まっていた。

 この人にはやはり、勝気な笑顔のほうが似合っている……などと思った来栖は、ふと気になって問いかけた。


「つかささんて、いつからこの辺でおれのこと探してたんですか? そういえば、それは聞いてなかった」


 え、とつかさがぎこちなく表情を固まらせる。

 来栖が畳みかけた。


「今月からとかですか? なんで急に? なにかきっかけでもあったんですか?」


「いや、それはあの、えーと」


「……もしかして」とあやめがつぶやく。「ずっと前から、ですか……? ……四州さんがクルスのお兄さんとお別れしたのって、二年くらい前ですよね……?」


「えっ。まさか、おれを探しつつもおれとバッタリ会うなんて偶然がないまま二年近く過ごしてたから、すっかりそれがいつものことになっちゃって、だからこないだの出会い頭はテンパり過ぎて逃げちゃったみたいな? ……つかささん、そんなわけ……」


 つかさはきょときょとと左右に視線をさまよわせながら、


「え、えっと、言いたいことは全部言えたし! あたし、そろそろ行くね! もう会うことはないと思うけど……本当に勝手だけど、今の君が見られて、よかった。クルスくん、元気でね。壇ノ浦さんも、さよならー!」


「は、はい!? お、お元気で……」と来栖。「まじなのか……」


「さ、さようなら?」とあやめ。


 つかさが、もう一度深く頭を下げて、それからまっすぐに背筋を伸ばした。

 そしてくるりと振り返って歩き出したつかさの前で、モーセの海割りのごとく、人波が割れていったが。

 つかさが、首だけを来栖たちに向けて言った。


「もっかい言っとく! クルスくん、今の服も髪もメイクも、とっても君に似合ってる! すっごくきれいだよ! 壇ノ浦さんも、とってもかわいい!」


 来栖は大きく胸を張り、「はい! ありがとうございますっ!」と答えた。


 あやめはひえっと小さく悲鳴を上げて赤面し、「あ、ありがとうございます……?」と消え入りそうな声で答える。


 来栖が、手をメガホンの形にした。


「つかささん! これがおれからの、最後の贈り物です! あのツリーより――」クルスはロビーの傍らにあった、電飾を巻きつけて光るドイツトウヒのクリスマツツリーを指さし、「――あのツリーよりもまぶしい輝きを贈ります! メリークリスマス!」


 そして、来栖は光り出した。

 その光量に、隣にいたあやめが「ううっ?」と目を細める。

 取り巻きたちも、これまでで一番のどよめきを上げた。


「なんだあれ!?」「まじで光ってる!」「あの子なんで光るの!?」「これなんかのイベント!?」


 そして、当のつかさは。

 腹を抱えて、器用に後ずさりしながら身をよじっていた。


「ええ!? なにそれ!? あはは、すっごい、本当に光ってる! なにそれ、あ、あはははは! クルスくん、ありがとう! ぜ、絶対忘れないよ一生! あはははは……」


 かつては何度もすぐ近くで聞いた快活な笑い声が、次第に遠ざかっていくと、来栖も光を止めた。

 そうして、ロビーで始まった一幕はようやく幕を閉じた。

 野次馬の誰かしらが、なぜか、拍手を始める。

 すると、次々に続く者が現れ、モールの一角は謎の大拍手大会の場となった。


 来栖はやれやれと嘆息し、あやめはひたすら身を固くしている。


「……とりあえず、逃げるか」


「そ……そうですね……?」


 そうして、まるでアーティストのライブの終了時のような喝采に包まれながら、二人はショッピングモールを後にした。

 来栖が、あやめへのプレゼントを買い損ねたことに気づいたのは、建物を出て五メートルほど歩き、それを贈ろうと思った本人の横顔を見た時だった。



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