第五章 一ノ谷来栖は恋をする 3
期末試験が終わった。
成績が発表され、悲喜こもごもが弾けた教室にようやく落ち着きが取り戻されると、もう高校は終業式を迎えていた。
十二月二十四日である。ほとんどの生徒の頭の中身は、おのおののクリスマスに染まっていた。
その数少ない例外が、終礼を終えても1-A教室に残っている二人の男子だった。
今日までにクラス内の、いや学年を超えて幅広く集まってきた人々が、揃って来栖たちをクリスマスパーティに誘ってきていたが、二人はやんわりとそのすべてを断っていた。
なお、塩顔系の美形である静二も、今では来栖とは別枠の人気者となっており、特に上級生女子からはちらほらと告白されている、らしい。
と、そんなこととは無関係に、
「どういうわけだ」
ぼそりとそうつぶやいた来栖に、静二が嘆息する。
「だから、本人に聞いてみればいいじゃない」
「それができたら苦労しない。……くそ、おれはこういうセリフからは縁遠い、行動型の人間だと思ってたのに」
あの、駅で別れた翌日から、あやめがまともに来栖と会話してくれなくなっていた。
来栖としてはてっきり、より関係が深まっていくと思っていたし、その覚悟を固めていた。
だが当のあやめが、廊下や通学路で来栖と会う度、「ひゃあ」とか「ひえ」とか言って逃げてしまう。
その顔が真っ赤なのを見ると、これまでよりもずいぶん来栖への意識が変わってきたのだろうとは思うのだが、ろくに話もできないのでは来栖としてはどうしようもない。
試験期間になればなおさら、無理にあやめを呼び出すようなことはできなかった。
フラストレーションを溜めた来栖が、机で頬杖を突きながらふと見ると、教室のドアから、上級生らしい男子がしかつめらしい顔で入ってくる。
「や、やあ。初めまして。一ノ谷来栖くんだよね? おれは三年の、佐藤忠嗣というんだ。卒業する前に、君に話したいことがあっ」
「おれはないです。特に告白系なら」
「そっ、そんな! おれは君と最高のクリスマスを過ごすために、受験勉強の傍らあれやこれやとデートコースやプレゼントの思案に明け暮れていたというのに!」
「お気持ちだけいただきます。ていうか受験勉強頑張って、まじで。じゃあほかに用がないなら、回れ右してください」
顔面にパンチを浴びたような顔になった佐藤――とやら――は、存外おとなしく、すごすごと去っていった。
「わ、わあ、辛らつだねえクルス」
「期末が終わってからもう四人目だぞ、冷たくもなるわ。……まあ、ちょっとおれ情緒不安定かもな。あー、結局そのまま冬休みか……。静二は年末年始どうするんだ?」
「僕は二週間丸まる母親の実家で過ごすんだ。しばしのお別れだね」
別に来栖としては、クリスマスから年明けまでを一緒に過ごす友人がいなくても平気といえば平気なのだが、なぜか今年はそれがひどく寂しく思える。できれば誰かと楽しく過ごしたい。
来栖がその気になれば、飛び入りでも遊んでくれる人間はダース単位で揃えられるだろうが、今頭に思い浮かぶ人物は一人しかいなかった。
「あ」
「なに、どうしたのクルス?」
「プレゼントか。クリスマスだもんな」
なにか気軽に渡せるものを用意して、それを口実に会えたらいい。
今のあやめと自分との間には、そうしてもおかしくないくらいの親しさはあるはずだと思った。
「あやめさんに?」
「そうそう。……って、なんで分かったんだよ!?」
静二は答えずに、慈しむような眼を来栖に向けた。
「な……なんだ?」
「好きなの?」
来栖は、ぐっと一瞬言葉に詰まってから、
「……どちらにせよ、本人の前に、別の人間に告白はしない」
静二が吹き出す。
「あは、いいじゃない。応援してるよ」
来栖は半眼になり、
「しなくていい」
「そう? うまくいったら、僕はうれしいな。来栖に恋人ができる時は、来栖から好きになった人とつき合って欲しいと思ってたから」
静二がかばんを抱えた。
「僕は少し部活仲間のところに顔出して帰るよ。じゃあね」
「ああ。また、三学期にな」
来栖が廊下に出て歩き出すと、まだ校内に残っていた生徒たちが、残っていてよかったと言わんばかりに嬌声と視線を送ってくる。
来栖は目くばせでそれに答えながら、どこへ行ってなにを買おうか考えていた。
そんなに高いものでなくても、あやめは喜んでくれる気がする。
ここのところ会えていなかった分余計に、その笑顔を想像すると、自然に来栖の足取りが軽くなった。窓からは正午近い陽光が差し込んでいるが、それでも薄暗さの残る冬の廊下に、次第にもう一つの光源が表れていく。
去っていく来栖を見送っていた女子生徒が、ぽつりとつぶやく。
「……わあ、あれが一ノ谷くんかあ……本当にちょっと光ってる……」
校内には、今日も塾の冬期講習のある生徒や、クリスマス前に恋人と別れた生徒や、クリスマスなど関係なく残業が確定している教師などもいた。
だが誰も彼もが、軽やかに通り過ぎていく美しい女装少年から放たれる光を見ると、少なくとも気分だけは明るくなった。
そしてそれらの誰よりも、来栖の心持ちは晴れやかだった。
あやめに会える。久しぶりに、声が聞ける。
■
一番手広く品物が揃っているだろうということで、来栖は駅前のショッピングモールに来ていた。
ここで大変な目に遭ったこともあるが、過ぎたことをいちいち気にしていたらどこにも出かけられなくなってしまう。
さて、なにを買おうか。文房具。日用品。お菓子。さりげないものでいいとは思いつつ、ありふれたものではないほうがいいとも思う。
生花店の前を通ると、ミニサイズのフラワーギフトがいくつも並んでいた。
(小さな花でも添えてみるかな。それはやり過ぎかなあ……)
その後、少しお高めの焼き菓子店の前で思案してから、ロビーのソファに腰を下ろす。
そういえば、あやめの好きな食べ物をあまり知らない。ココアを飲んでいたから、甘いものは大丈夫だと思うが、……
あまりに真剣に悩んでいたので、しばらく、来栖は気づかなかった。
あれ、と思ったのは、間断なく流れていた買い物客が来栖を見てはざわめいたり息をついたりしていたのに、急に周りが静かになったためだった。
「なんだ?」
顔を上げる。そこには、見覚えのある女性が立っていた。
芸能人のような存在感。身に着けているものすべてではなく、一部や小物にハイブランドを入れ込むことで自然に底上げされた美観。
かつて自分が憧れて、もしかしたら無意識に目指していた、おしゃれの体現者。
「つかささん……」
四州つかさは、鮮やかなヴァーミリオンの、細かいひだと刺繡の入ったロングスカートに、ブラウンのショートブーツを合わせていた。細いラインが縦に細かく刻まれている濃いボルドーのカーディガンが、腕にかけたコートとバッグの向こうで、周囲の風景からくっきりと浮き出ている。
繊細なアイラインも、鮮やかなルージュも赤だった。この人は本当に赤が似合う。赤系の服を着こなしはしても、家や自室では青系統の色に囲まれていると落ち着くたちの来栖は、つかさを前にするとひけめさえ感じた。
来栖の周り半径数メートルには、ほかには人がいなくなっていた。
あたりが静まり返っていたのは、タイプの違う圧倒的な美人二人が向かい合っている空間が、えも言われぬ迫力を生み出しており、客たちが遠巻きに輪を作って彼らを見つめていたためだった。
来栖が立ち上がる。
「偶然、じゃないんでしょうね」
「そうだね。クルスくんを探してた。ほかで買えるものでも、ここに買いに来たりして。でもこの間は本当に突然だったから、びっくりして思わずちゃった」
冷静であろうとする。だが、来栖は、体内の血が逆流するような異常な感覚に襲われていた。
あの時、自分は本当にこの人に心を開いていた。まったくの無防備だった。結局はそのうかつさが、兄を深く傷つけた。
つかさを責める気持ちよりも、そうした自責の念のほうが強い。
それはたぶん、つかさと別れた後しばらく、一人になるたびに嗚咽を漏らしていた兄の姿を何度も見たせいだろう。
「……で、なにしに来たんです? おれを探してたってことは、兄さんに謝るためとかではないんでしょう?」
「うん。違うね。これは、あまり褒められない考え方だろうけど……つき合ってる彼女を満足させられないなら、彼氏のほうが悪いよ。彼と彼女が逆でも同じ。だから別れても仕方ない、というか別れるべきだね。……私はあくまで、クルスくんに会いに来たの」
「会えましたよ。どんなお話があるんです?」
二人はほぼ同じ高さの目線を衝突させる。見えない火花を散らすかのように。
「クルスくんは、相変わらずきれいだね」
「よく言われます」
「だろうね。君は、女の敵だよ。女でもないのに、女の服を着たら女よりもきれいだなんて。全力で外見を磨いて頑張ってる自分が、なんだか空しくなるな」
「おれの服やメイクは、おれがなりたい外見のためにやっています。あなたの場合はそうじゃないと言うなら、それだけの話です。比べる必要も、意味もない。……その程度の話がしたかったわけじゃないでしょう」
なにより、来栖には、目の前の人間が本当にそんな空しさに打ちひしがれているわけがないという確信があった。
まったくの嘘ではないのだろうが、大した問題でもないはずだ。この人こそ、自分のための外見を磨き上げる楽しさを知って、それを体現しているのだから。だからこそ、来栖がかつて憧れたのだから。
「クルスくんさ。あの時、もし邪魔が入らなかったら、あたしとしてたかな」
静かだったやじ馬たちが、一斉にざわついた。
来栖にすれば、当時はまだつかさの恋人だった兄を邪魔呼ばわりされた不快感で、それどころではなかったが。
「正直、パニックと同時に茫然としてる、みたいな状態でしたからね。状況判断が正しくできずに、流されたかもしれませんね」
「そしたらあたしとできて、ラッキーだなって思ったかな」
「全然思わないでしょうね。そう言う男もたまにいますけど、単純にものを見過ぎですよね」
つかさが、一瞬だけ視線を外してから、また目を合わせた。
「……じゃあ、むしろ傷ついちゃったかな?」
「さあ。同意のない行為なんかで傷つきはしないような気もしますけどね、おれは」
「今も傷ついてない?」
「未遂ですから。怒ってはいますけど」
来栖が肩をすくめる。
「……そっか。じゃ、どの道だめだったかな。失敗だったんだ、最初から」
「だめって、なにがです? ……どうしてつかささん、おれにあんなことを?」
つかさが嘆息して答えた。
「なにって、性欲だよ。空須から聞いてるでしょ? 十代らしいじゃん。ほかになにかある?」
「それだけでは、おれは納得できません。あなたは動物みたいな欲求だけで、我を忘れる人ではないでしょう」
さすがに来栖は、つかさだけに聞こえるように声のトーンを落とした。頭の中には、自分よりずっと大人に見えた、ほかの誰よりずっと正しくて優れているように見えた兄の恋人の姿が眩しく明滅していた。




