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第五章 一ノ谷来栖は恋をする 1

 来栖が十四歳、兄の空栖が十七歳の時。

 兄が、彼女ができた、と言った。

 弟は、純粋に喜んだ。すでに、彼の通う中学で知らない者はいないほどの美形ぶりを誇っていた来栖にすれば、自分ばかりもてて、勉強ができて性格も自分よりずっといい兄に恋人ができないのが不思議だったからだ。


 ある日、兄が彼女を家に連れてきた。

 名前は、四州よしゅうつかさといった。


 初めて彼女を見た時、クルスは驚いた。中学では見たことのない、ファッション雑誌に載っていそうな髪型と服装に、いっぺんに憧れを抱いた。高校生って、こんなに大人っぽいのか。いや、この人が特別なんだ。


「昔からロングヘアにしたかったんだけど、あたし似合わないんだよね」と言うつかさに、来栖は「つかささんのおかげで、おれはショートカットのよさを本格的に理解しましたよ」と答えた。お世辞ではなく、本心だった。

 そして、そんな彼女と相思相愛になった兄を改めて誇らしく思った。


 来栖の目から見ても、兄とつかさは深く好き合っているように見えた。

 いつもクールな兄が、つかさの話をする時だけは顔を赤らめ、表情が隙だらけになる。

 一方のつかさは、自分が空栖のどこが好きなのか、訊かれれば喜んで、訊かれなくても折に触れて来栖に熱弁した。


一度、空須が席を外していた時、つかさが来栖に「空須って、あたしの美を分かってくれるところが好きなんだよ」と言ったので、来栖は驚いたことがある。誰から見ても、つかさが美人であることは疑いがないことだと思っていたからだ。


「つかささんが美しくないって人がいるんですか?」と来栖は訊いた。


「いや、あたしのことを美人だとは言ってくれるよ、誰もが。でも、余計なものまでついてくるんだよ。美人で特だねとか、それだけきれいだと生きるのが楽でいいよねとか。空須は、あたしが純粋に美人だってことだけを受け止めてくれるから、好き」


「よく分からないですけど、兄さんが褒められてるのは分かります」


 それにつかさに対して、凄い自信を自然に持っている人だな、と改めて少々驚かされたが。


「美人てさ、マイノリティなんだよね。いいほうのマイノリティ、とか勝手に言われたりするけど。でも、自分が属してないマイノリティこそ尊重して欲しいよ。違う立場だからこそ、分かったような気にならずにさ」


 そんな話を、来栖は中学で誰ともしたことがなかった。

 もう二三年しても、高校でもできる気はしなかった。

 こうしたところからも、来栖の中でつかさへの淡い尊敬は芽生えていたのかもしれない。


 つかさはあまり隠し事のできないたちのようで、来栖にこっそりと、空栖とつき合うことになったきっかけを教えてくれたことがある。

 つかさの前の彼氏は、とにかく物凄い美形で、女の人かと見まがうばかりで、それに惹かれてつき合い出した。だが彼は恋人をあまり大事にしない性格で、女遊びが奔放に繰り返され、つかさは何度も泣くはめになる。

 そんな時、慰めてくれたのが空栖だった。

 下心なく思いやりをもって接してくれる空栖に、だんだんとつかさは惹かれていき、つかさから告白して二人はつき合い始めた。



 兄は立派だ、と来栖は思った。

 そして、自他ともに認める面食いだったというつかさが、前の彼よりも空栖を選んだということがうれしかった。

 そうだろうそうだろう、兄さんは実に魅力的な人なのだ、と自慢げに何度もうなずいて、来栖はつかさの彼氏自慢を聞いた。


 そんなある日、来栖はあることに気づいた。

 つかさは脚線美もかなりものだったが、常にスカートしか穿かない。

「なんで?」と来栖が訊くと、「え、だってスカートのほうがかわいいじゃん」と当たり前のように言われた。


「一口にスカートって言っても、いろんな種類があるんだよ。Aライン、ゴアド、プリーツ、ミニ、マーメイド、その他もろもろ」


「ああ、……言われてみれば」


 そう、言われてみれば、スカートというのはなかなか独特の服だ。

 下からの防御力うんぬんというのは置いておいても、防寒性などないに等しく、機能性も皆無同然。なのに服飾の一アイテムにとどまるどころか、すっかり洋服界の最大手の一角として君臨している。


 来栖は日ごろからぼんやりと、女の人もみんなパンツスタイルになれば動きやすそうだけどなあ、なんでわざわざスカートを穿くんだろうなあ、と不思議に思っていた。

 しかしつかさにスカートについて教えられてから、なるほどスカートというのは機能性のなさを補って余りある魅力を持つ洋服なんだな、と納得した。


 そして、そんな優れた服ならば自分も着てみたいと思った。

 女のような格好がしたいのではなく、単純に、スカートというものが作り出すシルエットに憧れた。


「興味あるなら一枚貸してあげようか?」とつかさに言われたが、兄の彼女の服を身に着けるというのはなんとなく気が引けて、結局母親のラクダ色のロングスカートを借りた。

 早速穿いてみたが、まったくピンとこなかった。

 やはり親からの借り物ではそんなものか、と貯めていたお年玉をはたいて自分用のスカートを一枚買った。

 前後にひだが二つずつついた、生地が硬めの、赤いプリーツスカートだった。

 黒いレギンスを着けてから、穿いてみた。

 新しい自分がそこにいた。


 細身でまとまった上半身に、腰から下へすうっと広がる赤いライン。硬質な線がなぜかかわいらしく見えるシンプルなプリーツ。

 たちまち来栖は、スカートのとりこになった。


 母親の姿見の前でくるくる回っていると、そこへ、つかさが遊びに来て、チャイムを鳴らした。

 家にはほかに誰もいなかった。

 兄はタイミング悪くちょうどコンビニへ買い物に出かけており、間もなく帰る予定だったが、この時は留守だった。親も出かけていた。


 来栖は、一も二もなく、つかさにスカート姿を見せることに決めた。

 ドアの鍵を来栖が開けると、ノースリーブのサマーニットを着て惜しげもなく肩を出したつかさが、廊下に上がった。

 そして、外の明るさに目が慣れていたせいでよく見えなかった来栖の女装姿が、だんだんとつかさにもそれと分かってきた。


 この時期の来栖は少し髪を伸ばしており、今よりも中性的だった外見も相まって、スカートを穿くと女の子のように見えた。それを、来栖は自覚していなかったが。


 つかさが息をのんだ。あまりの来栖の美貌と、ロングヘアと、スカートの似合い方に。

 来栖はそんなことにはまるで気づかず、兄が帰るまで兄の部屋で待っててください、とつかさを促し、飲み物を入れに行こうとした。


 いずれメイクもしてみたくなってきました、つかささんみたいな、と言ったと思う。

 男子らしい欲望も、失礼な下心もなく、来栖はただ、自分にはないものをたくさん手にしている年上の女子を純粋に慕っていた。

 しかし気がついた時には、来栖はつかさに手を引かれ、兄のそれではなく来栖の部屋に連れ込まれていた。


 つかささん? おれの部屋には、特になにも――


 そこからは、まともに会話ができなかったのを覚えている。

 ベッドに座らされたかと思うとのしかかられて仰向けにされ、スカートの中に手を伸ばされ、何度もやめてくれと言ったのに、まったく意に介してもらえなかった。


 どうしてそんなことをするのか、なにが目的でどうしたいのか、それが分かればなにかしらの手を打てるのに、そんな来栖の思考などお構いなしで、つかさは来栖の体になにかをしようとし続けている。


 つかさの腕は細くて、中学生男子である来栖の力なら、跳ねのけるのは容易に思えた。

 しかし、力ずくで外してやろうと一度強くつかさの腕をつかむと、「痛い」と言われ、反射的にその手を放してしまい、その後はもう力で抵抗することはできなかった。


 ゆるめのトップスの肩をずらされ、首筋を甘噛みされた。

 鎖骨を指でなぞられ、今度は肩を優しく噛まれて、再びつかさの手が下のほうへ伸びていくと、来栖は混乱の極致に陥った。

 一方的な有無を言わせない侵略に、力で対抗できないのなら、どうしたらいいのだろう。


 やめてくれ、と再び連呼した。

 だが、やめてもらえなかった。


 スカートはこうした場合に身を守るものとしてはあまりに頼りなくて、大きく開いた布地をかき分けてつかさの細い指がレギンスの奥に到達するのを、腕ずくを封じられた来栖には阻む術はもうはなかった。


 次第に来栖の中で、無理にやめさせてけがをさせるのと、このままおとなしくされるがままにするのと、どちらを選ぶべきなのだろうと、本来生じさせるべきではない二択が頭の中に明滅し始めた。

 そのどちらかを来栖が選ぶ前に、来栖の部屋のドアがノックされた。


「クルス? つかさ? いるの?」


 兄の声だった。

 やめて! と来栖はこの日一番の大きな声を出した。

 今、この状態だけは兄に見せるわけにはいかない。


「クルス?」


「だめだ兄さん、開けないで!」


「どうしたんだよ? なにしてるんだ?」


 信じられないことに、その応答で稼がれたわずか十数秒の間に、てっきり飛びのくものだと思ったつかさの体は、来栖の上から動こうとしなかった。

 それどころか、つかさの腕は止まらないでいる。

 やめてくれ、と来栖はもう一度言った。


「クルス、開けるぞ!」


「だめ――」


 そしてドアが開かれた。

 つかさは、ほとんどつけ根まであらわになった来栖の両足の上で、声もなく笑っていた。

 ただそれだけは、来栖は覚えている。



 あやめは、男子の部屋に招かれたのは初めてとのことだった。

 先ほどの店から三十分ほどで到着した、二階建ての一軒家の中。

 階段を上がった先の突き当たりのドアを開け、来栖がしゃちこばったあやめを招き入れた部屋。


 黒と白のツートンカラーを基調にした家具に、来栖の好きな色であるネイビーの小物が散見される室内は、小ぎれいに片づけてあった。ただ、ぱんぱんのクローゼットの外にも置かれた、大量の服を吊るした移動式ハンガーが存在感を放ってはいたが。


 話し終えた来栖は、あやめと並んでソファ代わりに座っているベッドをぽんぽんと叩き、唖然としているあやめに言った。


「これが、そのベッドである」


「ひえっ……あ、は、はいっ」


 一瞬腰を浮かしかけたあやめが、またすとんと座りなおす。

 汚いもののように思ったわけではない、ということだろう。

 勉強机にトレイごと置かれた二つのティーカップは、冷めかけていた。なるべく感情的にならないように、来栖がゆっくり話したせいだ。


「あ、あの……」


「ん?」


「その、つかささんは、……お兄さんより、クルスのほうが、……好きになったんでしょうか?」


「そうとも言えるような、違うような」


「……と言うと?」


 来栖が頭をかいて答える。


「あの後、兄さんがえらくつかささんを怒ってくれてさ。なんでこんなことしたんだ、って。そうしたらつかささん、自分でもどうしようもないくらい、徹頭徹尾、本当に重度の面食いなんだとよ。特に、『女の子みたいにきれいな男の子』に凄まじくご執心らしい」


「それじゃ……当時のクルスは」


「彼女の好み、ど真ん中だったんだろうな。一応言っておくと、つかささんが兄さんを好きだっていうのは本当だったと。ただ、……おれから見た兄さんは男前だと思うんだが、彼女の要望を満たすタイプの見た目ではないんだってさ。そのせいで欲求不満が知らず知らず溜まっていって、おれのあまりのかわいさに不意打ちされてたがが外れたんだそうだ。……兄さんはおれを襲ったつかささんを許せなかったし、つかささんは兄さんでは物足りないと気づいて、……結局、二人は別れた」


 おれのせいで、と思わず小さくつぶやいてしまう。幸い、あやめには聞こえなかったようだ。

 あやめに言うつもりはないが、来栖が本当につらかったのはその後だった。もちろん空栖は、その何倍も。

 平静を装いながらも、明らかにその後の空栖の生活は荒れた。ものを食べる量が激減し、表情は明るいのだが、部屋は片づけられなくなり、本を開いていても目が文字を追っていない。

 来栖には、兄がいかにもつかさのことを吹っ切ったかのように振る舞うものだから、謝ることもできなかった。

 謝る。なにを? 美しく生まれたことを? その魅力を開花させたことを? 兄へのそれを圧倒する欲望をつかさに抱かせ、実力行使にまで及ばせたことを? ……


「……あの時、腕力ではおれのほうがつかささんより強かったと思う。中学生男子だからな。それでも抵抗できなかったし、……怖かった。あれ男女が逆なら、恐怖は比べ物にならないんだろうな、とも思ったよ。……あやめ。おれって、怖いか?」


 あやめがかぶりを振る。


「思いませんよ。力では、クルスは私なんか太刀打ちできないほど力はあるでしょうけど……怖くないです」


「そうか。それだけでも、女装したかいがあるよ。どうしたって人間、自分の力や体格には無自覚になるからな」


 来栖が笑って肩をすくめる。


「そういえば……そんな目に遭っても、スカートを穿くのはやめなかったんですね」


「ああ。ついでに言うと、女性不信にもならなかったな。おれを脅かす女より、助けてくれた女の人のほうがずっと多かったからかもな。母親から、学校の先生から、クラスメイトまで。今おれが着てる女子の制服も、一年生なのに夏前に転校した女友達が記念にくれたもんだし」


 よかったです、とあやめがうなずきかけた時、来栖がその顔を下から覗き込んだ。


「それに、あやめも仲良くしてくれてるしさ」


 急な接近のせいで背筋を反り返らせたあやめが、後ろに倒れそうになる。


「わ、私はっ? 来栖こそ、私と仲良くしてくれてるではないですか?」


「……そうだな。今の話は、静二にもしたことがない」


「そう、なんですか」


「そうなんです」


「なぜ私に」


「……知って欲しかったのかもな。君には。だから、話せた」


 ぼす、と来栖が、足をベッドの端から降ろしたまま仰向けに倒れた。

 その隣に、あやめも仰向けになる。


「聞きますよ。私でよければ、なんでも」


「おれは、君に安心してる。だから不安にならずに、こんな話もできる」


 安心、という言い方が、あやめには気になった。安心とはなんだろう。だが、今は追及する気になれない。

 あやめの顔の前に、来栖の髪が一房横たわっていた。

 気がつくと、あやめはその毛先を指ですいていた。


「あやめは、いいやつだな」


「そうでもないですよ。クルスこそ」


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