第8話 肛門の神を求めて
朝の教室。
まだ始業前で、窓から差し込む朝の光が机の上を明るく照らしていた。
クラスメイトたちは思い思いにおしゃべりしたり、ノートを広げたりしている。
ガラッ、と勢いよく教室のドアが開いた。
その音に振り向いた生徒たちの視線の先に、あかりが立っていた。
髪は少し乱れ、肩で息をし、顔は興奮でほんのり赤い。
「美咲ーーーっ!!」
あかりの声に、美咲は思わずびくっとした。
あかりは教室の前列に座る美咲を見つけるや否や、一直線に駆け寄った。
机に手をつき、身を乗り出してくる。
「ちょ、ちょっと何その勢い……どうしたの、朝から?」
美咲は半ば呆れたような顔でノートを閉じ、あかりを見上げた。
近くで鞄を机に置いていた東雲光が、にやりと笑いながら口を挟んだ。
「おー、あかり。朝からやけにごきげんじゃん。
なんかいいことでもあったのか? 俺にも教えてくれよ。」
「ち、ち、ちがうの! こ、これは……女子だけの話! 女子だけの秘密なの!」
あかりは両手をぶんぶんと振って否定する。
光はわざとらしく肩をすくめて笑った。
「へぇ〜。ま、いいけど。秘密なら仕方ないか…」
光は何でもないというように自分の席へと戻っていった。
そのやりとりに、クラスの数人がくすくすと笑った。
美咲は小さくため息をつきながら、あかりに顔を向けた。
「で? なに? 今度はどんな変なことを思いついたの?」
「うぅ〜、早く放課後にならないかなぁ……。」
あかりは机に突っ伏したまま、子どものようにぶつぶつとつぶやいた。
そのとき、始業を告げるチャイムが鳴り響き、教室がすっと静まった。
美咲は「後でちゃんと聞くから」と目で合図を送り、あかりは机に顔を埋めたまま、もぞもぞと頷いた。
⸻
放課後の教室。
夕陽が窓から差し込み、机を橙色に染めている。
クラスメイトたちは帰り支度を終えて次々と教室を後にし、最後にはあかりと美咲の二人だけが残った。
「ふぅ、ようやく放課後になったわ……。」
あかりは机に積んであった教科書やノートを脇に押しやり、身を乗り出した。
目は期待と興奮で輝いている。
「美咲! 聞いて聞いて!」
「はいはい。今度はなに? またギリシャのトイレの話?」
美咲は椅子の背にもたれながらペンをくるくると回し、少し面倒くさそうな口調で返す。
「ちがうの! ついにわかったのよ! 肛門宇宙論にはまだ足りないものがあったの!」
「……はい?」
「神様よ、美咲! 肛門には神様がいたのよ!!」
美咲は思わずペンを落とした。
「……朝から変だと思ったら……今度は神様?」
「そうなの! 昨日の夜、歴史書を読んでいて気づいたの。
これまで進化の歴史を追ってきたでしょ? 二億年前に哺乳類の祖先が総排出口から肛門を分け、二重扉を手に入れた。
その結果、私たちは“出口専用”を得て、人間らしい生活ができるようになった。
でもね、美咲。それだけじゃなかったの。」
あかりは机を指先でとんとんと叩きながら、声をひそめる。
「私たちはさらに進化して、液体・固体・気体を見分けるセンサーまで備えたの。
これはただの生物学的変化じゃない。
まるで“誰か”が、人間にふさわしい出口を授けたみたいだと思わない?」
美咲はあきれ顔で、椅子を前に引き寄せながら言った。
「いやいや……それ、ただの生理機能でしょ。
でも、たしかに感覚がけっこう繊細だから、そう言いたくなる気持ちはわからなくもないけど。」
「ほら見なさい、美咲だってちょっと納得しかけてる!」
あかりは身を乗り出して得意げに笑う。
「納得してないってば。ただ……あんたがそういうふうに真剣に言うと、なんだかもっと変な話に聞こえるのよ。」
「いい? よく考えて。進化の途中で、誰もがこの二重扉を持てるようになったのは偶然の産物?
それとも何か大いなる意志が働いた結果?
そして人間は、この扉をコントロールし、適切な場所と時間で放出できることで尊厳を守ってきたの。
これは文化の基礎よ。神が見守っていたと考えたほうがしっくりこない?」
美咲は眉をひそめて小声でつぶやいた。
「……そもそも肛門に尊厳とか神とか結びつけること自体がすごい発想だよ。」
あかりはふんっと胸を張り、机の引き出しから一冊の分厚い本を取り出した。
「これを見て! 古代ローマの歴史書よ。
そこに――いたの。肛門の神様が!」
あかりは立ち上がり、黒板の前まで歩いてチョークを取り、板書するような仕草をした。
「歴史を見て、美咲。古代ローマにはトイレを司る神がいて、インドには不浄と浄を分ける思想があり、日本にはトイレの神様が祀られてきた。
人は昔から直感的に感じ取っていたのよ、この扉の神聖さを。」
美咲は机に頬杖をつきながら、少しだけ笑って思わず前のめりになる。
「……え、ほんとに? そんなのが?」
「その名はクロキーナ!
ローマ最古の下水道、クロアカ・マキシマを守る女神。
“クロアカ”は総排出口を意味するラテン語。
つまり彼女は人類の出口――肛門の守り神だったのよ!」
あかりは黒板をバンッと叩いて力説する。
美咲は目を丸くして笑いをこらえきれず、吹き出した。
「ちょ、ちょっと待って……ほんとにいたんだ……しかも女神?」
「そう! 出口を司るのが男性神じゃなく女性神ってところがまた面白いでしょ。
古代の人たちは、命を支える浄化の力を母性に重ねていたのかもしれない」
「……あんたさ、ギャグにしか聞こえないことを、妙に真面目な顔で言うよね。」
あかりは頬をふくらませ、むっとして言い返した。
「ギャグじゃないの! 本気で気づいたのよ。
私、これまで宇宙論の中で進化史ばかり追いかけてきたけど、神の存在を無視してた。
これは……研究者として恥ずかしい失態だわ!」
「研究者って……。」
美咲は笑いをこらえきれず、くすっと笑ってしまった。
だが、その目には少しだけ好奇心が宿っている。
あかりは興奮で頬を紅潮させながら続ける。
「ローマでは、大洪水や疫病の時、人々はクロキーナに祈りを捧げて下水道の詰まりを清めてもらおうとしたの。
まるで都市の“お尻”を守る守護者のようにね」
美咲は感心したように小さくうなずいた。
「へぇ……なんだか思ってたよりちゃんとした神話ね。
で、そのクロキーナが世界のトイレの神様の元祖ってわけ?」
「そうなの! 彼女の存在を出発点に、時代が下るにつれてトイレや肥料の神様が生まれていったのよ。
清めと排泄は表裏一体だから、人々はそこに神聖さを見出したの」
美咲は頬杖をつきながらくすっと笑う。
「まさかそんな話を聞いて、ちょっと感心するとは思わなかったわ。
……つまり、肛門は人類史と文化をつなぐ“神話の扉”でもあったってことね」
あかりは満足げにうなずいた。
美咲は少し目を細め、夕焼けに染まる窓の外を見つめた。
「まあ、そういう文化史の勉強はちょっと面白そうかもね。」
あかりはふっと表情を緩め、ぽつりとつぶやいた。
「そう! 私、ずっと進化史だけを追ってきて大切なことを見落としてた。
肛門はただの器官じゃない。人はそこに神を見いだし、文化を築いてきた。
――この宇宙論、やっと完成に近づいてきた気がしてたけど……私の宇宙論は、まだ半分しか描けてなかったんだわ。
肛門にまつわる神を知らずして、この宇宙を語ることはできない……。」
美咲は苦笑いしながら言った。
「まあ、せいぜい頑張りなさいな。
でも学校の帰り道でまた大声で叫んだりしないでよ。
周りに変な目で見られるから。」
あかりは頬を赤らめ、照れ臭そうに黒板の前に立っていた。
窓の外では夕陽が沈みかけ、教室の影が長く伸びていた。
二人の前には、新たな探求の扉が開こうとしていた。
⸻
※注:この物語はフィクションです。
実在の宗教や神話との関連は、あくまで物語上の考察であり、作者も登場人物も神罰を受ける予定は今のところありません。




