第7話 二重ハッチの夜明け
翌日の放課後。
窓の外ではグラウンドを吹き抜ける秋の風がカーテンを揺らしていた。
美咲は机に肘をつき、だらけた様子でペンをくるくる回している。
その前で、あかりはまるで授業参観の発表をする小学生のように背筋を伸ばし、分厚い生物学の本を抱えていた。
「美咲!聞いて。昨日の夜ずっと調べてたんだけど、ついにわかったの!」
「また肛門の話でしょ……?」
「そう! でも今回はマジで歴史的大発見よ!
二重ハッチ、つまり内括約筋と外括約筋がいつ生まれたのか、ついに突き止めた!」
美咲は眉を上げる。
「……え、マジで?そんなのわかるの? というか肛門に歴史とかあんの?」
「ある!むしろ壮大な進化ドラマがある!」
あかりは本を机に置き、ページを開いた。
紙の上にはカンブリア紀の奇妙な生物たちの復元図が並んでいる。
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「最初の頃はね、まずね、肛門がない時代が長かった…。肛門そのものがなかったんだって」
「え、ないって……じゃあどうやって?」
「口から出してた」
「ひぇっ」
美咲が思わず顔をしかめる。
「約6億年前、クラゲとかサンゴみたいな腔腸動物がそう。
食べたものを消化して、口からまた出すの。
この頃はまだ肛門はこの世に存在しない。
で、5億4千万年前に、消化管の後ろに新しい穴ができた。もう一個出口を作ったやつが現れたんだよ!後口動物の祖先(原始的な肛門)これが最初の肛門!言わば“肛門”のはじまり」
「穴ができたって……シンプルすぎ。
けど……まぁ……口とお尻が分かれたのはホント良かったよね」
「そう。でもまだ一重ハッチだった。
つまり出口の穴がひとつで、そこを開け閉めするだけ。カギみたいな筋肉はなかった」
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続いて、あかりは指で魚の絵を示した。
「それが魚の時代になると、環状の筋肉がついてハッチ式になった。でもまだ一枚扉…
そう!それこそが“総排出口”!!
今の鳥とかカエル、爬虫類がそう。魚類や両生類・爬虫類などの**総排出口**は、基本的には 内括約筋に近い平滑筋の輪 で開閉されてたの。
自動的に締まるんだけど、自分で細かく調節はできない…
おしっこもウンチも卵も同じ穴から出す、いわば“なんでもありのゲート”だね」
「う〜……なんかちょっと嫌だなそれ〜」
「まぁ、ちょっとね〜。だからこの頃もまだ
二重ハッチじゃない。
基本は筋肉のリングひとつで開け閉めしてた。やっと内括約筋の誕生だね」
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そして、あかりはここで一度、大きく深呼吸をし、ためを作ったのち、目がきらりと光る。
「そして――約二億年前。
地球に新しいグループが現れる。キノドン類、つまり哺乳類の祖先たち!」
「き、キノ……何?」
「キノドン類。見た目はトカゲっぽいけど、毛が生えてて、のちに哺乳類になる仲間。
彼らがついに――総排出口を“分割”した!」
「え? 分割?」
「そう! それまで一緒だった出口を、尿と生殖用の穴と、ウンチ用の穴に分けたの!
そして肛門は、食べ物の通り道の最後に“専用の扉”として独立した」
美咲が目を丸くする。
「え〜! じゃあそこから今の私たちのお尻の形が始まったってこと?」
「そう!
さらに、そのころ初めて“二重ハッチ”ができた。
内側に自動ドアみたいな内括約筋、外側に自分の意思で締められる外括約筋。
ダブルロックの完成!」
あかりはノートに二重扉の絵を描き、得意げに見せた。
「これで便は漏れにくくなり、排泄のタイミングをコントロールできるようになったの。
これってすごい進化で、人類の祖先が文明を築くための“トイレ革命”の第一歩でもあるのよ!」
「へぇ〜……キノドン類って、どんな見た目だったの?」
「例えばキノグナトゥス(シニオドン)っていう種類が有名。
体長は犬ぐらいで、ちょっとずんぐり。
歯は臼歯っぽくて草も肉も食べられた。
毛が生えていて、温かい血を持ってたらしい」
「犬ぐらいのもふもふしたトカゲ……想像つかないな……」
「でも彼らがいなかったら、私たちの肛門は今も総排出口(一枚扉)のままだったかも。
つまり、トイレのタイミングを自分で選べるようになったのは、哺乳類から。
現代の快適な肛門ライフはこの“二億年前の先輩”のおかげなんだよ!」
美咲は思わず吹き出す。
「いや、何その“先輩”呼び……でもちょっと感謝したくなるかも」
「でしょ!?
もし二重ハッチがなかったら、私たちは今でも野生動物みたいにいつでもどこでも……」
「ストップストップ! 想像させないで!」
二人は顔を見合わせて笑った。
笑いがひと段落すると、美咲は改めて感心したように頷いた。
「でも、なんかすごい話だね。
普段は当たり前に使ってるけど、肛門って進化の結晶なんだ」
「そうなの!
だから私たちが今、授業中にトイレを我慢できるのも、二億年前のキノドン類のおかげ!」
「なんか歴史の教科書に載せてもいいレベルの偉業だわ……“肛門の独立宣言”って感じ」
あかりは笑いながらも目を輝かせた。
「ほんとにそう。
食べること、動くこと、考えること……全部、きちんと出せる身体があってこそだもん。
二重ハッチはただの筋肉じゃなくて、人類文明の基礎を作った装置なのよ!」
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窓の外がオレンジから群青に変わり始める。
教室の空気は少しひんやりしてきた。
「ねえ、美咲。
次はね、哺乳類が二重ハッチを持ったことで、どんな社会的変化が起きたか調べてみようと思うの」
「社会的変化? この前言ってたトイレ文化の進化とかをさらに深掘りするつもり?」
「そうそう!
そしてその先には、きっと私の宇宙論に繋がる何かが待ってそうな気がするの……」
「おっと、また壮大な旅になりそうだね」
美咲は半分あきれながらも笑って、ペンを机に置いた。
「でもさ、あかりの話聞いてると、肛門ってなんだかロマンチックに思えてきたわ。
二億年前の小さな生き物から続いてるって考えるとさ」
「そうなんだよ、美咲!こうやって歴史をたどると、肛門ってただの穴じゃなくて、生き物が環境に適応してきた証なんだよね。出口ひとつの時代から、使い分けるために扉が増えていった。二重ハッチはただの生理現象じゃなくて、進化の叡智が詰まった最高傑作のドアなんだよ!」
「……ドアにそこまで熱くなれるの、あかりくらいだよ。まぁ……たしかにそう聞くとちょっと感慨深いけどさ」
「でしょ!? 次のテスト範囲には出ないけど、人生にはめちゃくちゃ役立つ知識よ!」
二人は笑い合った。
ふと、美咲が何気なく「そういえばさ、トイレの神様って聞いたことあるけど、肛門の神様っていないのかな?」とつぶやく。
その瞬間、あかりに稲妻が走る。
(そ、そうだ……私、宇宙論を語りながら、肛門を司る神の存在を知らなかった……!)
ガタンッ!
あかりは勢いよく立ち上がった。
椅子がひっくり返る。
「うそでしょ…!?まさか…」
「ごめん美咲! 先帰る!」
「はぁ?またぁ??」
美咲は、やれやれといった表情だ。
あかりは猛ダッシュで家路を急ぎながらも
考えを巡らせる…
(私の宇宙論は不完全だった…
なんて私はバカだったんだ…
肛門の神様の存在を知らなかったなんて赤面ものだよー)
(※注:すでにこの宇宙論自体が赤面ものである)
こうしてあかりの探究心は美咲の何気ない一言からさらに加速していくのであった。




