表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

4作目:桔梗からの便り

もう何日。

見上げて目に入るのは天井の木目のみである。私の時間は、枕元の薬湯の匂ひと、絶え間なく続く雨の音だけで出来てゐるやうだつた。長く癒えぬ熱のせゐで、身体の節々は鈍く痛み、思考は常に、薄い靄の中を彷徨つてゐる。


梅雨が長い。

障子一枚を隔てた向かうは、一日中、灰色に煙つてゐる。湿り気を帯びた空気が部屋の隅々にまで満ちて、呼吸をする度、肺の奥が重たくなる心地がした。是の儘では、是の身も壁の染みのやうに、じつとりと黴びてしまふのではないか。そんな思ひが、熱に侵食された心を一層弱らせるのであつた。


まうひと月以上か。

あの人に会へなくなつて、偶に届く短い手紙だけが、私とあの人を繋ぐ唯一の細い糸であつた。然し、この十日ほどは、其れすらもぷつりと途絶えてゐた。病人の見舞ひに草臥れてしまつたのだらうか。其れとも、私の知らぬ処で、あの人の世界が、私を置き去りにして進んでしまつたのだらうか。考へれば考へるほど、底無しの沼に足を取られるやうな、冷たい恐怖が背筋を這い上がつてくる。


ふと思い出した。

熱に魘される微睡みの中、去年の晩秋の日、あの人の手を借りて、小高い丘を登つた。風に揺れる穂が、夕日を浴びて黄金色に輝いてゐた。私が咳き込むと、あの人は心配さうに眉を寄せ、黙つて此の背中を擦つてくれた。其の手の温もりが、どれほど私を安心させたことか。


「見て、桔梗がまだ咲いてゐる」

あの人が指差す先には、露に濡れる数輪の紫の花が、凛として咲いてゐた。其の色の、何と気高く美しかつたことか。あの頃に戻れるものならば。あの健やかな日々は、今となつては手の届かぬ夢のやうだ。甘い記憶は鋭い刃となりて、繰り返し胸を刺す。枕に顔を埋めると、熱い涙が止めどなく溢れ、濡れた枕はひやりと冷たかつた。雨音は、まるで私を嘲笑ふかのやうに、しとしとと、いつまでも降り続いてゐる。


どれ程の時が経つたのだらう。

涙も枯れ果て、虚ろな心地でぼんやりとしてゐると、人の上がつてくる微かな足音が聞こえた。そして、私の部屋の前で止まる。静かに障子が開かれ、いつも世話をしてくれる母が黙礼をして盆を差し出した。湯気の立つお粥の脇に、一通の手紙が置かれてあるのが目に入る。


見間違ふ筈もない。

心臓が、大きく音を立てた。力強く、そして何処か素朴な、あの人の筆跡であつた。震へる指で、やつとの思ひで其れを取り上げる。期待と、もしも是れが別れの便りであつたらと云ふ恐怖とで、息が詰まりさうだつた。封を切る手が、小刻みに震へてゐるのは、病の所為だと誤魔化す。手紙は一枚きり、其此には、短い言葉が綴られてゐるだけだつた。


「一日も早く快方へ向かふことを祈つています。快くなつたら、またあの丘へ行きませう」

文の末尾には、小さな押し花が、和紙に包まれ添へられてゐた。其れは、あの日に二人で見た、露に濡れた一輪の桔梗であつた。


言葉はなかつた。

けれど、其れで十分であつた。あの人は、忘れてなどゐなかつた。此の病の床で、独り心細さに苛まれてゐた私を、遠くからずっと、案じてくれてゐたのだ。胸の内に立ち込めてゐた黒い霧が、さつと音を立てて晴れてゆく。温かいものが心の底から込み上げてきて、今度は安堵の涙が、らはらはと頬を伝つた。


眩しい。

ふと気付けば、雲の切れ間からは、久しぶりに見る日の光が、金色の筋となつて地上に降り注いでゐる。あれほど執拗く降り続いてゐた雨が、いつの間にか上がつてゐた。光は濡れた庭の苔を照らし、其処だけが天上の庭のやうに、生き生きと輝いて見えた。


早く、元気にならなくちや。

私は、あの人の想ひが込められた桔梗の押し花を、そつと胸に抱き締めた。雨上がりの澄んだ空気が、心地良かつた。私の長い梅雨は、今、やうやく明けようとしてゐた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ