4作目:桔梗からの便り
もう何日。
見上げて目に入るのは天井の木目のみである。私の時間は、枕元の薬湯の匂ひと、絶え間なく続く雨の音だけで出来てゐるやうだつた。長く癒えぬ熱のせゐで、身体の節々は鈍く痛み、思考は常に、薄い靄の中を彷徨つてゐる。
梅雨が長い。
障子一枚を隔てた向かうは、一日中、灰色に煙つてゐる。湿り気を帯びた空気が部屋の隅々にまで満ちて、呼吸をする度、肺の奥が重たくなる心地がした。是の儘では、是の身も壁の染みのやうに、じつとりと黴びてしまふのではないか。そんな思ひが、熱に侵食された心を一層弱らせるのであつた。
まうひと月以上か。
あの人に会へなくなつて、偶に届く短い手紙だけが、私とあの人を繋ぐ唯一の細い糸であつた。然し、この十日ほどは、其れすらもぷつりと途絶えてゐた。病人の見舞ひに草臥れてしまつたのだらうか。其れとも、私の知らぬ処で、あの人の世界が、私を置き去りにして進んでしまつたのだらうか。考へれば考へるほど、底無しの沼に足を取られるやうな、冷たい恐怖が背筋を這い上がつてくる。
ふと思い出した。
熱に魘される微睡みの中、去年の晩秋の日、あの人の手を借りて、小高い丘を登つた。風に揺れる穂が、夕日を浴びて黄金色に輝いてゐた。私が咳き込むと、あの人は心配さうに眉を寄せ、黙つて此の背中を擦つてくれた。其の手の温もりが、どれほど私を安心させたことか。
「見て、桔梗がまだ咲いてゐる」
あの人が指差す先には、露に濡れる数輪の紫の花が、凛として咲いてゐた。其の色の、何と気高く美しかつたことか。あの頃に戻れるものならば。あの健やかな日々は、今となつては手の届かぬ夢のやうだ。甘い記憶は鋭い刃となりて、繰り返し胸を刺す。枕に顔を埋めると、熱い涙が止めどなく溢れ、濡れた枕はひやりと冷たかつた。雨音は、まるで私を嘲笑ふかのやうに、しとしとと、いつまでも降り続いてゐる。
どれ程の時が経つたのだらう。
涙も枯れ果て、虚ろな心地でぼんやりとしてゐると、人の上がつてくる微かな足音が聞こえた。そして、私の部屋の前で止まる。静かに障子が開かれ、いつも世話をしてくれる母が黙礼をして盆を差し出した。湯気の立つお粥の脇に、一通の手紙が置かれてあるのが目に入る。
見間違ふ筈もない。
心臓が、大きく音を立てた。力強く、そして何処か素朴な、あの人の筆跡であつた。震へる指で、やつとの思ひで其れを取り上げる。期待と、もしも是れが別れの便りであつたらと云ふ恐怖とで、息が詰まりさうだつた。封を切る手が、小刻みに震へてゐるのは、病の所為だと誤魔化す。手紙は一枚きり、其此には、短い言葉が綴られてゐるだけだつた。
「一日も早く快方へ向かふことを祈つています。快くなつたら、またあの丘へ行きませう」
文の末尾には、小さな押し花が、和紙に包まれ添へられてゐた。其れは、あの日に二人で見た、露に濡れた一輪の桔梗であつた。
言葉はなかつた。
けれど、其れで十分であつた。あの人は、忘れてなどゐなかつた。此の病の床で、独り心細さに苛まれてゐた私を、遠くからずっと、案じてくれてゐたのだ。胸の内に立ち込めてゐた黒い霧が、さつと音を立てて晴れてゆく。温かいものが心の底から込み上げてきて、今度は安堵の涙が、らはらはと頬を伝つた。
眩しい。
ふと気付けば、雲の切れ間からは、久しぶりに見る日の光が、金色の筋となつて地上に降り注いでゐる。あれほど執拗く降り続いてゐた雨が、いつの間にか上がつてゐた。光は濡れた庭の苔を照らし、其処だけが天上の庭のやうに、生き生きと輝いて見えた。
早く、元気にならなくちや。
私は、あの人の想ひが込められた桔梗の押し花を、そつと胸に抱き締めた。雨上がりの澄んだ空気が、心地良かつた。私の長い梅雨は、今、やうやく明けようとしてゐた。