3作目:空蝉の光
独り、高層建築のバルコニーに立つてゐると、秋風が容赦なく頬を打つた。手摺の金属は、既に夜の冷たさを含み、遠くには人々の営みを、点々と光となつて映し出してゐた。其の光は、私に哀れみの目を向けているかのやうであつた。
私は耐えられず、黒い硝子を指でなぞる。然れば、画面には色褪せぬ過去が映し出される。去年の秋に撮つた一枚であつた。公園の銀杏並木の下、黄金色の葉が、祝福のやうに私達に降り注いでゐる。
何と言ふこともない、ありふれた一日であつた。私達は、路地裏の喫茶店で、焙煎の豆で淹れた苦い珈琲を啜り、他愛もない話に笑ひ興じた。其の後、小さな耳栓を片方づつ分け合ひ、同じ音楽を聴きながら、落ち葉の絨毯を踏んで歩いた。かの人は「此の曲、好き」と、眼を輝かせて言つた。其の時の声、其の時の表情が、今もなほ、私の記憶に焼き付いて離れない。
「私たちの未来は、希望の光で満ちているわ」
かの人の言葉は、此の胸に木霊する。未来とは、是程にも容易く道を違へるものだつたのか。指先一つで過去の映像を呼び出せる便利な世なれど、其れは慰めにはならず、却つて刃のやうに私の心を抉つた。画面の中の幸福さうな私は、今の私を嘲笑つてゐるかのやうであつた。
部屋の息苦しさに堪へかね、私は、宛もなく夜の街へ出た。目を遣ると、煌々と光を放つコンビニが一際目立つて見えた。其の扉は、感情もなく開閉を繰り返してゐる。中では、誰も彼もが無言のまま、己の用事だけを済ませてゐた。私は、用事もないのに其処を彷徨ひ、やがて何か買わねばと、冷たい茶を一つ買い外へ出た。
アスファルトの道は、街灯に照らされて青白く光つてゐる。かつて、二人でよく歩いた道である。暗くなつた店を見れば、猫背で、ひどく頼りなげに見える自分の姿が目に反射した。隣にゐるべき温もりも声もない。すれ違ふ人々の楽しげな声が、耳障りな雑音となつて、私の孤独を一層際立たせるのであつた。
部屋に戻ると、人工的な光が、がらんとした空間を冷ややかに照らし出してゐる。冷蔵庫の低い唸りだけが、生命の無き部屋に唯一、音を与へてゐた。其の扉を開け、口にしなかつた茶を入れる。冷蔵庫の奥からは滲んだやうな光が私の額を照らした。
再び窓に身を寄せ、遠くの空を横切つてゆく飛行機の点滅を見つめる。あの光のやうに、何処かへ行けるなら、さう思つても、私の心から逃れられないことは分かつてゐた。
かの人のゐない此の街は、美しく整つてはゐれど、魂が抜け落ちた空蝉のやうである。そして私も亦、其の空蝉の街で息をする、生きた屍に過ぎないのかもしれぬ。此の巨大な都市の中で、私の悲しみ一つ、誰に知られることもなく、暗闇に溶けて消えて行くのだ。
さうしてゐる内に、人々の生活の光は点々と消えて行つた。私は、ただ静かに更けてゆく夜の中に、ぢつと佇んでゐるのであつた。