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2作目:黄昏の渇望

公園のベンチに身を沈めれば、晩春の柔らかな日差しが、瞼に淡く透ける。桜は散り果て、新緑の萌え出す木々の間からは、微かな土の香りが立ち上つてゐる。行き交ふ人々のざわめきは、遠い幻聴の如く、私の意識の淵に沈んでゆくばかりであつた。


私の身体を蝕むこの倦怠感は、日増しにその影を濃くしてゐる。何故か、と問ふても、答えは常に宙を彷徨ふばかり。その正体を知る術もなく、ただ、刻一刻と迫り来る黄昏を待つのみの心地であつた。


ふと、幼き日の記憶が、木の葉の如く頭上の木枝から舞ひ落ちた。あの頃は、如何に小さな喜びにも、胸を躍らせたものであらうか。道端に佇む一輪の花にも、空を泳ぐ雲の形にも、川辺に横たわる石ころにも、限りない幸福を見出してゐた。それが今では、如何に美しき景色を前にしても、心が揺れ動くことはない。ただ、虚ろな眼差しで、その移ろひを眺めるのみである。


嗚呼、この尽きせぬうら寂しさは、一体何処から来るのであろう。或いは、私は、生きてゐる実感そのものを、喪失してしまつたのかもしれない。世の常の喜怒哀楽、人との交はりの中に得られる筈の暖かな感情は、私の内では既に冷え切つてしまつてゐる。まるで、この世に生まれ落ちたその瞬間から、私だけが硝子の壁に隔てられてゐるかの如く、何一つとして真に触れることが叶はぬのだ。人々は私の前を通り過ぎ、互ひに笑ひ合ひ、語り合ふ。その営みは、私には遠い映画の一場面のやうに映り、私自身がその中に踏み入ることは、永遠に許されないかのやうに思はれた。


その時、甲高き声が、突如として公園の静寂を切り裂いた。見れば、三四人の子供たちが、毬を追ひながら、こちらへ駆け寄つて来る。彼らは、さながら生命のみなぎる泉のやうに、無邪気な笑ひ声、弾むやうな足音、そして、純真な眼差し。私の座るベンチのすぐ傍で、彼らは毬を蹴り合ひ、互ひに歓声を上げ、時には転び、しかしすぐに立ち上がつては、また走り出す。彼らの存在は、あまりにも眩しく、そして、あまりにも遠い世界であつた。


私の心は、彼らの歓声とは裏腹に、重く沈んでゆくばかりであった筈が、その光景を眺めるうち、微かな動揺が起こつてゐた。彼らの、汚れなき喜びに満ちた表情、その一点の曇りもない輝きは、私の乾ききつた心の奥底に、潤ひをもたらすかのやうであった。それは、遠い昔に置き去りにした、私自身の生への渇望であつたのか。


私は、知らず知らずのうちに、彼らの動きを目で追つてゐた。彼らが毬を追いかけ、無心に笑ふ姿は、私の存在とはあまりにもかけ離れてゐる。だが、その隔絶された壁から見る彼らの姿は、私が長らく抱いてゐた倦怠感の中に、微かな、しかし確かな波を押し寄せたのだつた。


一陣の風、その冷たさが僅かながら、この身に確かな感覚を呼び覚ます。私はゆっくりと目を開け、茜色に染まり始めた空を仰いだ。空には、薄紅色の雲が、ゆつくりと流れてゐる。子供たちは、公園の奥へと去つていつた。彼らの残した賑やかな余韻が微かに漂つてゐる。


遥か彼方、街の灯が点々と瞬き始めた。人々はそれぞれの家路につき、家族の待つ暖かな食卓を囲むのであらう。私には、その光景が、あまりにも遠く、手の届かぬ夢のやうに感じられた。私の行く末は、この孤独なベンチの上。私は、このまま永遠のうちに沈んでしまへば、如何に安らかであらうか、と考へた。そんな、甘美で、しかし恐ろしき誘惑が、私の心を捉へて離さなかつた。


日は傾き、公園には長い影が伸びてゐる。そろそろ、帰途につかねばならぬ。だが、この身を動かすのが、億劫であつた。まるで、私の魂が、肉体から遊離してしまつたかのやう。重い瞼を再び閉ぢれば、風の音と、遠くで鳴く鳥の声のみ。全ては、まどろみの中に融け込み、私を深い闇へと誘ふ。そして、その闇の奥底には、私自身の姿が、おぼろげに、しかし確かに横たはつてゐた。それは、生きてゐるのか、死んでゐるのか、定かではない。ただ、存在することの重みだけが、私を押し潰す。私はその場に留まり続けた。黄昏は深まり、公園は、やがて来る夜の闇に飲み込まれてゆく。私の意識もまた、その闇の奥へと、静かに、沈んでゆくばかりであつた。

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