1作目:鉛色散る香り
しづかなる朝の空気は、駅のホームに満ちる人々の熱気と喧騒と共に、忽ち押し流された。早暁の薄明かりが残りたる空の下、駅の時計は、午前八時を指してゐた。
私は人波に揉まれながらも、いつもの電車を待つてゐた。冬の朝は殊の外冷たく、襟元をきつく引き寄せた。凍てつく空の下、人々は皆、厚い外套に身を包み、まるで枯れた木々が身を寄せ合ふかのやうである。
電車が到着し、ドアが開くや否や、圧縮された空気が吐き出されるがごとく人々はなだれ込む。私も亦、その流れに身を任せた。車内は既に身動きも叶はぬほどの混雑ぶりで、息苦しさが募る。吊り革に掴まる私は、車窓の外に目を遣つた。
枯れ草の生い茂る河川敷は、霜に覆はれて白く、遠くの山並みは、鉛色の空の下に沈み込んでゐた。ビル街の屋根は白く、鈍い光を反射してゐる。そこにあるのは、生命の息吹が潜められ、あらゆる色彩が削ぎ落とされた、無機質な風景であつた。それは、まるでこの満員電車の乗客たちの心模様を映し出してゐるかのやうに、私には思へた。皆、表情を凍らせ、身を固くして、互ひの存在を意識せぬかのやうに佇んでゐる。
私の視線は、近くに立つ一人の女性の手に吸い寄せられた。彼女は、手袋を嵌めた手を胸元で組んでゐる。その指先には、細やかな刺繍が施された、古びた手提げ袋が握られてゐた。私は、その刺繍に、かすかな色彩を見出した。それは、寒さに耐へて咲く、小さき水仙の花であつた。その一輪の水仙は、枯れた景色の中にあつて、ひそやかな美しさと微かな甘い香りを放つてゐた。
私は、その花に、女の内に秘められたる、ひそかなる温かさや、希望の灯火を感じた。この無表情な群衆の中に、まだ斯くも繊細で美しいものを持ち合わせる人がゐる。それは、凍てついた大地の下に、春を待つ生命の芽が眠つてゐるかのやうな、かすかな希望の光であつた。
しかし、次の瞬間、その細やかな希望は、あつけなく掻き消された。電車が駅に到着し、ドアが開くと、人々の押し合いへし合いが激しくなる。彼女は、流れに抗うかのやうに、身を固くしてゐたが、不意に、後方から押された見知らぬ男の肘が、彼女の腕にぶつかつた。
彼女の手から滑り落ちた手提げ袋は、固い音を立てて床に落ちた。私は、その光景をただ呆然と見つめるより他、術がなかつた。手提げ袋の口が僅かに開き、中から小さなガラスの香水瓶が転がり出た。それは、手のひらに収まるほどの、細工の凝つた可憐な瓶であり、陽光を受けて、色に煌めく瓶は、女の秘めたる慎ましやかなる美を象徴してゐるかのやうに見えた。
しかし、その小さな瓶は、人々の足元を転がり、次の瞬間には、扉の外に蹴り出された。カラン、と乾いた音がしたが、誰一人として足を止める者はゐない。皆、我先に、冷たい冬の空気の中へと吸い込まれてゆく。彼女は、その惨状に、顔を歪め、扉の外を見つめてゐた。香水瓶を探しに行く間も無く、人々が雪崩込んでくる。そこには、無慈悲な現実が広がつてゐた。
私は、自分自身の無力さと、この世界の無情さを痛感した。この満員電車という空間が、人間の繊細な心情や、ひそかなる美を容易く踏みにじる、醜悪なる側面を持つてゐることを、改めて思い知らされた。さらに、その醜悪さの前に、己の感性が無力であることに、深い絶望を覚え、そしてこの凍てつく季節と、非情な人間が何処となく似ていると感じた。
やがて、私が降りる駅に到着した。ドアが開き、人々が押し出すやうに外へ出る。私も亦、その流れに乗つて電車を降りた。ホームに降り立つと、ひんやりとした朝の空気が私の頬を撫でた。
改札へと向かふ足取りは重かつた。私の頭には、悲しげな彼女の顔と、ぽつんと取り残された香水瓶、そして薄く漂う甘く物悲しい香りが、まざまざと焼き付いてゐる。