静眼の令嬢~婚約破棄されたら、静かな怒りで『弱点』を見通せるように
美しい白バラが印象的な夜会だった。
高鳴る楽団の調べ、舞い踊る貴族たちの笑い声。その中で、クラリス・ヴェルディアは、淡い水色のドレスに身を包み、背筋を正して立っていた。
いつもどおり無表情で、無感動にも見えただろう。
それが王太子の気に入らなかったのだ。
「クラリス。……残念だが、僕たちの婚約はここで解消させてもらうよ」
その声は、場違いなほどに軽かった。
レオンハルト王太子。次期国王にして、白いバラのように美しいと女性の心を揺さぶる、この国で最も華やかな存在。彼は人々の前で、涼しげに言った。
「申し訳ないが、君はあまりにも感情を感じられない。ヴェルディア家が王国にとって重要な存在であったとしても、生涯をともにする相手としてふさわしくないと考えているよ」
会場がざわめいた。
現れたのは白いドレスの少女。リシェルと紹介された。恥じらうような笑顔の少女は、なんと平民だという。
「僕は僕の力で切り開く。政略結婚はうんざりだ」
レオンハルトが言うと、会場はためらいながらも拍手が起きた。
それはだんだん大きくなっていく。経済を牛耳ろうというヴェルディア家への不満もあるのだろう、とクラリスはぼんやり考えていた。
クラリスは、一言も返さなかった。ただ、深く一礼して立ち去った。
血も涙もないヴェルディアの人間にふさわしい、と誰かが言った。小さく笑い声も起きた。
なにも感じないと思っているのだろうか、とクラリスは思った。
屋敷に戻るとクラリスの父は激昂し、王国との断絶を叫んでいた。妻は涙を流し、なぐさめようとクラリスをさがした。
クラリスは裏庭にいた。
落ちていた棒を拾い、敷地内にある太い木を叩いた。
乾いた音がして、棒を落としてしまう。
クラリスは拾い直して、木を叩いた。
しだいに音が大きくなる。
手に伝わる反動も、痛みを感じるほどになっていった。
しかし衝動はおさまらなかった。
クラリスは読書を好み、散歩や花々をながめて過ごすのが好きな少女だった。
体の内側では多様な感情が流れる多感さも持っていた。しかし、両親の教育で、人前で激しい感情を出すなと教えられ、それを忠実に守っていただけだった。
クラリスの父は激しい感情を前面に出し、それで、一代でのし上がった商人だった。そんな自分を誇りに思っていたが、同時に、がさつな人柄を見下されているとも感じていたのだ。
クラリスは棒で叩いた。
木も痛いだろう。そう思いながらやっていた。強い矛盾を感じていたが、やめられなかった。
手が痛い。でもやめられない。
翌日からも続けた。両親も、使用人も、黙って棒を振り続けるクラリスを見守るだけだった。
たまに母親だけは声をかけたが、瞳の奥の深く沈んだ光を、母親だけはしっかり見分けることができた。強く言えなかった。
「痛くない」
ある日、そんなことがあった。
同じように、力を込めて叩いたのに、反動があまりなかった。
おまけに木が大きく削れている。
どういうやり方だったか。
クラリスは自分の動きをたどった。
何度も、何度も、痛いだけの感触が続いて、また痛みがなかった。
大きく木が削れていた。
木を叩くのはやめた。
裏庭にあった大岩を叩くようにした。木が削れすぎたからだ。
岩はクラリスの身長ほどはなかったが、人が数人集まって、テコの原理を使ってやっと転がすことができるかどうか、というものだ。
その大岩も削れていく。
クラリスはすっかり慣れた。というより、見えるようになってきた。
ある部分を叩くと削れるのだ。
色の濃淡でわかる。濃い部分を叩くと良い。
叩くほどに濃淡は色を変えた。
思いついて、強く叩いたら岩が割れた。
「お嬢様」
使用人のソルが現れた。剣を携帯している屈強な男だ。武力に対抗するための使用人だ。
「なに?」
「わたしを見て、なにか感じられますか」
ソルは言った。
「……左脚が痛むの?」
ソルは目をみはった。
別の棒を拾って、構えを取る。
「これでは?」
「脚は弱くなくなったかもしれないけれど、右手首が弱い」
「お嬢様だったらどうされますか?」
クラリスは棒の先で、ちょん、と右手首の、色が濃い部分をついた。
ソルが棒を落とす。
「これは……」
「痛かった?」
「いえ、手加減していただきましたので」
「お嬢様!」
メイドが息を切らせながらやってきた。
「レオンハルト王太子がいらっしゃいました!」
応接室にはソファに座ったレオンハルト、それと武装した人間が五人、壁際にいた。
向かいには、顔を真っ赤にしてにらみつけているクラリスの父がいる。
「やあ、クラリス」
レオンハルトは微笑んだ。
「君からも言ってやってくれないか。君のお父様が、すこしわがままを言っていてね」
「貴様らと商売などするか!」
「言葉には気をつけろ」
武装した男が言った。
「このまま王国と商売をしないというのなら、他の場所でも仕事はさせられない。なんといっても、反乱のおそれがあるからね」
「ふざけるな!」
「言葉には気をつけろと言っている」
「くっ……」
「……その棒はなんだい?」
レオンハルトは、クラリスの棒に目をとめた。
「私になにを言ってほしいのですか?」
「ああ、せっかくだから、第二、いや第三王妃にしてあげようと思ってね。そのほうが、いろいろと話がスムーズに進むだろう」
「わかりました」
「やめろクラリス!」
父親は言った。
「やめるのはあなただ」
レオンハルトは肩をすくめた。
「どこまでおれたちをコケにする気だ!」
武装していた男のひとりが剣を抜いて、その先をクラリスの父に近づけようとした。
そのときクラリスは前に出て、棒で剣の側面をついた。
剣が折れ、テーブルに落ちて大きな音を立てた。
レオンハルトが腰を浮かせる。
「なん……、なに?」
そのままクラリスは男たちに向かった。
折れた剣の側面でクラリスを殴ろうとしたが、クラリスは刀身の根本を突いて折り、腹を突いた。
男は簡単に膝を曲げて絨毯につく。
棒であごを、下から引き上げた。
「父上に危害を加えるなんて許しませんよ」
しん、と部屋が静まった。
クラリスの心は静かだった。
人や物の弱い部分が見えるだけではない。
その人間がどんな行動を取るのかが見えていた。弱い部分をどう守り、あるいは活かすか、そういうことが自然にわかっていた。
だから一連の動きも、クラリスにとっては非常に単純な動きでしかなかった。
「捕らえろ」
レオンハルトは言ったが、クラリスは少ない動作で全員の膝を床につかせた。
棒が、ごく軽いものなのも、クラリスの負担にならず幸いだった。
「王太子様」
クラリスが言うと、レオンハルトはびくりとした。
「すこし、考え直していただけますか?」
「……は、はは、冗談さ」
レオンハルトは引きつった笑みを浮かべて、両手をあげた。
「今日はこのくらいで帰るよ」
「まだいらっしゃる御用が?」
クラリスは言った。
「……帰るぞ」
レオンハルトたちは去っていった。
それから。
毎日、クラリスは棒を振るようになった。
裏庭ではない。表の庭だ。
ソルや、他の使用人たちだけでなく、剣術を修めた有名な剣士までやってきては、クラリスの剣を見て、話を聞くようになった。
「やってるな」
クラリスの父親がやってきた。
「お父様」
「まったく、あなたは……」
クラリスの母が、困ったように言う。
「ごめんなさいお母様。でも、私のお父様は一代でこの家を築いた人です。私が一代でなにかをしてしまっても、かまわないでしょう?」
クラリスの母は目を丸くして、父は大きな声で笑った。
「やってしまえクラリス! はっはっは!」
父の笑いにつられて、クラリスも笑った。
それはささやかな笑い声だったが、母親は涙を流すほど驚いた。
※追記 予想よりたくさん読んでいただけたので、もうひとつ短編を公開しました。クラリス、剣術学院にてひと騒動あります。
『静眼の令嬢~剣術学院で受けた無礼を静かに引き裂く~』