4 甘美な彼に酔いしれる
「素敵な方ですよね。ハウルベック様」
パウダールームで髪を整えてくれる侍女が、鏡越しにそう言っていた。
先程助けてくれた彼の名は、ルーフィス=ハウルベック。
王家にも信頼の厚いハウルベック侯爵の長男で、次期侯爵。
柔らかい物腰とあの美貌、そして耳心地の良い美声で、数多の女性を虜にさせている。しかも、貴族にしては珍しく、女性に寄り添う考えを持っているため、身分問わず女性からは絶大な支持を得ていた。
フィーナは今日初めて見たが、噂に違わずの美貌だったなと頬が思わず緩む。
夜会があまり好きではないが、たまに現れるルーフィスは、女性陣の熱視線の的となっているのだ。
この夜会を開いたカーン伯爵の侍女も、その顔を間近で見られ、興奮気味の様子だった。
そのおかげか、真偽不明であるもののルーフィスの情報を聞けた。
ルーフィス=ハウルベック。
血を辿れば、王家にあたる由緒正しき侯爵家の長子。
数年前に結婚していたが、妻が病気で亡くなったとの事。
その妻に操を立てているのか、弟に爵位を譲ってもいいと考えているらしく、現在のところ再婚は考えていない。
夜会があまり好きではなく、友人との交流の場として、あるいは商談に繋げるためたまに出ている。
フィーナが知っている事といえば、その程度だ。
「あんな素敵な方と結婚出来たら……凄く幸せでしょうねぇ」
髪を整えてくれた侍女が、ほぉと夢心地な様子でため息を吐いていた。
ルーフィスを近くで見られただけでなく、言葉を交わせた嬉しい余韻に浸りつつ、色々と話してくれたのだった。
* * *
しばらくして、髪や身だしなみを整えたフィーナは、会場に戻っていた。
音楽は流れているものの今は、自由時間となっているらしく、踊りたい者はホールの真ん中で踊り、会場の両端では談笑している者達がいる。
本当なら、フィーナはこのまま帰りたかったが、もう一度ルーフィスにお礼を言いたいなと彼の姿を探す。
「誰かをお探しかな? 可愛いお嬢さん」
フィーナがキョロキョロとしていれば、背後にあったカーテンの陰からルーフィスがひっそりと現れた。
どうやら、カーテンの奥には三人掛けのソファがあり、簡易的な休憩室となっているみたいである。
「あの、先程はーー」
とお礼を言って頭を下げようとした時、フィーナの目の前にカクテルグラスを差し出された。
「お礼は一度で充分だよ」
そう言って微笑むルーフィスからグラスを受け取りつつ、どうしようかと凝視してしまった。
お酒が飲めない訳ではないが、顔に出るため飲まない様にしているのだ。
「ただのレモン水だよ」
フィーナが何に悩んでいるのか分かったのか、自分のグラスを口に傾け、ルーフィスは小さく笑っていた。
「いただきます」
高位貴族に失礼な態度だったかなと、恐縮しつつフィーナも同じくグラスを傾けた。
よく冷えたレモン水が、フィーナの渇いた喉を心地よく潤していく。
レモン水を口にしたフィーナを見て、ルーフィスがまるで内緒話の様に囁いた。
「渡した私が言うのもなんだけど、誰かにレモン水やソフトドリンクだと言われて貰っても、素直に飲んではダメだよ?」
「え?」
「夜会は善人の集まりではないからね」
高い身分があるだけで、善人だけではないのが貴族だ。
その地に住む者達にとって、そこを治める貴族がたとえ善人だとしても、他の貴族にとっては善人ではないかもしれない。
自領をより良くする為にやった事でも、知らずに誰かを蹴落としている事すらある。
蹴落としたり貶めたり考える輩も多い。
ましてやフィーナは女性だ。中には不埒な事を考える輩いるから気を付ける様にと、やんわりとフィーナに教えてくれたのだ。
オブラートを剥がせば「"変な物"を入れる輩もいるから気を付けてね?」と。
「ルーフィス様以外には、気を付けますね?」
蝶よ花よと育てられたお嬢様と違い、フィーナはこれでも世間を知っているつもりだ。
だが、身を案じてくれたルーフィスの気持ちが嬉しかったフィーナは、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「ダメだよフィーナ嬢。私とて立派な男なのだから、注意する様に」
自分を信頼してくれるのは嬉しい。
だが、これでも男なのだから……とフィーナをまるで幼な子をあやす様に、だが少し意地悪そうな表情でルーフィスは優しく諭す。
そんなルーフィスにフィーナはわざと驚いて見せ、クスクスと笑った。
「まぁ! 自ら注意を促す狼はいませんわ」
「だが、縄張りに入るなと、警告する狼はいるだろう?」
ルーフィスが笑ってそう返す。
確かに野生の狼ならあるだろう。フィーナは内心頷きつつ、今度はわざとらしく怯えて半歩下がる。
「ひょっとして、縄張りに入ってしまいましたか?」
「どうだと思う?」
と意味深な笑みを浮かべたルーフィス。
しばらく、お互い見つめ合っていたが、どちらかともなく吹き出していた。
この小さなやり取りが、妙に楽しくて心地良かったのだ。
互いの立場や距離感を分かっていて、言葉の意味を読み違える事なく遊びが出来る。それはまるで、唯一無二のパズルのピースがハマったかの様だった。
ルーフィスはチラッとフィーナを見た後、ウエイターを呼びフィーナのグラスと自分のを下げさせた。
ルーフィスは身分から、そういう事をされる側だというのに、気配りが細かい。こういうスマートなところがまた、女性から高い人気がある理由だろう。
そんな事を考えていると、ルーフィスは少し戯けた仕草で、フィーナの前に手を差し出した。
「牙を剥く凶暴な狼でよければ、踊ってくれませんか?」と。
フィーナは思わず笑みが溢れた。
ルーフィスの何が凶暴なものか、優しい狼である。
そんな優しい狼は、フィーナと違ってルーフィスは引く手数多だし、たとえ凶暴だとしても、その容姿で令嬢達は寄って来るに違いない。
その証拠に、距離を取って見ていた令嬢達からは、途端に黄色い声が上がった。
ルーフィスと踊りたい令嬢は山程いる。しかし、令嬢達は互いに牽制し合って声を掛けなかったり、皆で押しかけては玉砕していたのだ。
ルーフィスから誰かに声を掛けるのは、異例中の異例。
ともなれば、黄色い声どころか悲鳴すら上がっている。
断っても断らなくても、注目の的。
注目はされたくないが、頭で考えるより先に、自然とその手を取っていた。
「羊の面を被った狼ですが、よろしくお願いします」
「大歓迎だよ。可愛い狼さん」
ルーフィスならたとえ狼だとしても、世の女性達はわざと噛まれに行くに違いない。いや、食べられたとしても本望だ。
勿論、フィーナに手を差し出してくる男がいない訳ではない。
だが、二度も振られると慎重になるもの。変に期待させるのもと、フィーナは好きで壁の花と化していたのだが、ルーフィスが気遣ってくれた事にする。
ここだけを見れば、憐れんだだけかと、嫉妬を嘲笑で吹き飛ばしてくれるだろう。
ルーフィスとフィーナがホールの真ん中に行けば、ちょうど音楽がゆったりなワルツへと変わった。
踊りが得意ではないフィーナは、軽快な曲調でなくてホッとする。これなら、ルーフィスの足を踏む事態は避けられるだろう。
「腕は痛むかい?」
フィーナを気遣う優しい言葉と、腰に置かれたルーフィスの手に、フィーナは思わず頬が赤く染まる。
「お酒を飲めば良かった」
そうすれば、この頬の赤さを誤魔化せたのに……。
フィーナは腕の痛みよりも、今のルーフィスとの距離感が、急に恥ずかしくなり俯く。
その頭上では、フィーナの呟きと耳の赤さで察したのか、クスリと小さく笑う声が聞こえた。
「光栄だね。キミを酔わせる栄誉をいただけたのであれば」
「もう! こ、これ以上、私を酔わせないで下さいませ」
お酒をひと口も口にしていないのに、ルーフィスという甘美にフィーナは酔いそうだ。
フィーナは限界とばかりに、ついプイッと顔を逸らせば、小さな笑い声が頭上から聞こえた。
「キミといると私も酔いそうだ」と。