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304.(悪戯にしてやられた)

 薄暗い教室の中の空気は、心なし湿っぽかった。差し込む月明かりも、どこかひやりとしている。引き戸を開けて廊下に出ると、A棟の階段へと向かった。

 ふたり分の足音に合わせるかのように吉田の息遣いが鮮明に聞こえた。耕一は廊下を照らすライトの先を見つめる。努めて意識しないようにと思えば思うほどに、吉田の呼気に気を取られた。

「うわっ」

 不意に吉田が声を上げた。

「どうした」

「なんでもない、ちょっと躓いただけ」

「勘弁してくれよ」

「ねぇ、十勝くん、十勝くん」

「なんだ」

「怖くないかい?」

「そっちは?」

 吉田は耕一の手を握ってきた。「特に怖くはないけれども、どこか心細いのは否めない」

 きゅっと握られた手に、力が込められた。

「しょうがないな」

 呆れ半分のつもりで言葉を吐いたが、吉田の行動は不意打ちだ。なんだか緊張する。どくどく鳴ってる鼓動が吉田に聞こえたら恥ずかしい。そう思ったら、指先もどくどくと脈打ってるみたいに思えて、重ねた掌から吉田に気取られてないかと、とたんに心配になった。

 息は普通か? 汗をかいてないか? 歩く速度はおかしくないか?

 何かもが心配になって、でも吉田の手が自分の手の中にあって、しかも暖かくて小さくて華奢で柔らかくて、はあはあ聞こえる吉田の息遣いが気になって気になってと思ったらそれが自分の呼吸だったと気がついて、慌ててゆっくり吸って吐いてと意識し出したら苦しくなった。

「ぷわっ」

 一度に息を盛大に吐き出した耕一に、吉田がびくっとしたのが手を伝って分った。

「驚かさないでくれよ」

 幾分非難がましく、吉田が云った。

「悪い」

 恥ずかしくて、顔が赤くなるのが自分でも分かった。熱い。今が夜で暗いのがせめてもの救いだ。

 そうしてふたりは途中で男子トイレに寄り、鏡をひとつ持ち出すと、A棟の階段を昇って、三階へと続く踊り場へと辿り着いた。

 ふたり並んで鏡の前に立つ。

 マグライトを消しても充分に明るかった。窓から差し込む月明かり、ふたりの姿が映る鏡の中は、耕一には違う世界のように見えた。

 これなら、幽霊が中に住んでいてもおかしくはない、と思った。

 バッグを下ろして、耕一は云った。「さっさとやろうか」

「うん」

 耕一はレーザーの墨壺を姿見のある壁から直角に立て、吉田に対面の壁に照らされた赤い印をマスキングテープでマークさせた。吉田は初めて見る工具を興味深そうにしていた。耕一はマークを基準に、曲尺と巻き尺を使って位置を決める。それからドリルの刃先、先端から四〇ミリのところにぐるりとマスキングテープを巻き付ける。

「それは?」と吉田。

「印。このテープのところまで掘るんだ」

「へぇ」

 いたく感心したような声を吉田はあげた。「なるほど」

 なんだかこそばゆく感じた。全部、突貫での叔父仕込みであって、付け焼き刃にもほどがある。

 インパクトレンチに今し方テープを巻いたドリル刃を換装すると、耕一は壁に刃先を当て、トリガーを引き絞ってガリガリと穴を掘り始めた。

「音に驚くなよ」と叔父は笑っていた。事前に教えられていたこととは云え、その音は大きくがらんどうの校舎にともすれば乱暴に響いて、耕一の気持ちは萎縮しかけた。

「通報されたらアウトだ」自分に云い聞かせるような耕一の言葉に、「大丈夫だよ」と吉田は笑った。根拠無しのその自信を少しでいいから分けて欲しい。

「けれども、この道具を見られたら申し開きはできないよね」

 あはっと吉田は笑った。

「その時は吉田に脅されたって云う」

「ひどいことを云うね、キミは」

 ガリガリとふたつ目の穴を掘る。削れたコンクリートが砂となってパラパラ落ちる。

「それにしても」と吉田。「本当にキミの叔父さんと云う人は何者なのかな。こんな道具とか、普通の人じゃないみたいだ」

「まぁ普通、インパクトレンチまで常備している家も珍しいかな」

「インパクトレンチ?」

「電動ドリル。これだよ。ドリルだけじゃなくてドライバーとか先を色々交換できるんだ」

 すると吉田は、ふうん、と感心したように云う。「やっぱりキミも男の子なんだねぇ」

「なに?」

「なんだかわくわくとしているよ?」

「そうか?」

 うん、と吉田。「楽しそうだ。道具を持ってるのが」

 そうかな、と耕一。壁を削る刃先から目を離さずに口を開く。「あのさ、武道館裏の壁に扉の絵が描いてあるの知ってるか?」

「いや。そんなもの、あったかな」

「あれ、歴代美術部の管轄で学校公認なんだけどさ。最初に描いたのは叔父さんなんだ」

「ちょっと待って」

 吉田の言葉に、耕一はドリルを持つ手を止めた。途端に、つんとした静寂が空ろに舞い降りた。

「どうした」

「あれ、絵だったの?」

「知らなかったのか」

 いやぁ、と吉田。「びっくりしたよ」

「毎年三年が、どれだけ人を騙せるか挑戦してるんだ」

 耕一はドリルを構えなおして、再び壁を削る。「夏休み中にね」

「じゃぁボクはすっかり美術部の悪戯にしてやられたってことか」

「先輩たちも絵描き冥利に尽きるんじゃね?」

 ふうん、と吉田。「キミは今年、描くのかな」

 耕一は四つ目の穴にとりかかる。吉田がマークしたマスキングテープをガイドに、ドリルの刃先を宛てがった。カチッとトリガーを引き絞ると、回転する刃が壁を削っていく。

「おれ、絵ってあんまし得意じゃないんだよ」

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