302.(見失っちゃった)
吉田は顔を耕一に近づけ、云った。「ねぇ、触らせてくれないか」
「なに?」
「そのお腹。ヌイグルミみたいで、なんか素敵なものが詰まっているみたい」
「……脂しかねぇよ!」
「それでもいいよ」
吉田の顔がぐっと近づく。髪が赤く燃えて、頬は柔らかく夕焼けに染まっている。黄昏時の光を受けた瞳が、メガネのレンズ越しにキラキラと輝いていた。少し開いた唇の間から、小さな歯が丁寧に並んでいるのが見えた。
きれいだと思った。
夕日を受けた吉田の歯の色は、どうやったら描けるだろうと思った。
「誰かいるのか?」
ふと、三階から声が降ってきた。
ぱっと吉田の顔が離れた。「いますよ」
「用がないなら早く帰れよ」階段を降りてきたのは、数学の沢田先生だった。「なんだ、吉田か」
「もう帰ります」吉田はぺこっと頭を下げて「では」
とととっと吉田は階段を降りていった。耕一も沢田先生に頭を下げその後を追った。昇降口で靴を履き替えているところで吉田に追いついた。声をかけようとして、間近で見た吉田の顔を思い出し、開きかけた口を噤んだ。
「けっきょく、ガセだったのかな」
とんとん、と吉田は足を入れた白いスニーカーのつま先を地面で打つ。
「見たかったなぁ」
吉田は上履きをしまいながら振り返り、にっこり笑った。口元からきれいに並んだ歯が、ちらりとのぞいて見えた。
※
「十勝くん、十勝くん」
放課後、掃除も終わって荷物をまとめ、部室である美術室へ向かおうとしたところを呼び止められた。吉田だった。緑色のフレームのメガネをしていた。
「今日はヒマかな?」
「部活」
すると吉田は、そっか、と心なし残念そうな顔をした。
「ならいいや」
ひらひらと手を振り、くるりと背を向け引き返した吉田に、考えるより先に声をかけていた。
「ちょっと待てよ。なんの用だよ」
立ち止まって吉田は顔だけを向けた。「いいの?」
「部活なら、少し遅れても大丈夫」
「悪いね」
そんな言葉とは裏腹に、吉田は見て分かるほどに喜んでいた。
「ありがとう」
にっこり微笑む口元から、きれいに並んだ白い歯。こんなにも明け透けに感情を面に出すとは。吉田にはあとどれくらい見たことのない表情があるのだろう。
「で、なんの用だ?」
「一緒に来て欲しい」
吉田は鞄を持ち、すたすたと歩き出した。耕一も鞄を持って、その後をついていく。
「先日、一緒に幽霊を見にいっただろう?」
「A棟の?」
そう、と吉田。「あれからね、見たと云った一年女子を探したんだよ」
「見つかったのか?」
吉田は頷いた。「本人は余り話したくないようだったけれどもね。たぶん先生に口止めでもされていたのだろう」
「無理矢理訊き出したのかよ」
耕一は呆れた。しかし吉田は少しも悪びれた様子もなく。「ボクは協力してもらったと思っているのだが」
「ひでえ先輩だな」
「そうかな」
振り返った吉田はくふっと、笑った。
「それでどうするんだ」
耕一の問いに、吉田はにこやかな顔のまま続けた。「彼女が見たと云う同じ条件で、追試験をしてみたい」
「遊び半分で心霊スポットに行ってはいけません」
すると吉田は立ち止まり、あはっと楽しそうな声を上げた。「面白いね、キミ」
「いや、洒落にならないぞ」
「信じていないのに?」
「どちらかと云えば信じている」
「見たこともないのに?」
「そりゃそうだ」
「ならばぜひに見たいと思わないかな?」
そうまでして云われると、何だか引き下がれない気持ちになった。
「だけど、吉田さぁ。時間的にどうなんだ?」
「その子が見たのは別に丑三つ時じゃないよ?」
「いや違う」
耕一はぐるりと見廻して云う。「いま、その追試とやらをやって、万が一遭遇したらどうするんだ。さすがにマズイだろう?」
廊下はざわざわと騒がしい。部活へ向かうか帰宅かと、たくさんの生徒が教室から出ては、ひっきりなしに廊下を行き来している。
「なるほど」と吉田。
「クラス委員長がそれでいいのか?」
「立候補でなく推薦だが」
「それは関係ないだろう。よりによって委員会で釘を刺されたお前が率先してどうするんだってことだよ」
「うん。キミの云うことは一理ある」
どうやら吉田は納得してくれたようだ。
「では、部活が終わるころに迎えに行くよ」
にこっと笑った。よっぽど幽霊に逢いたいらしい。
そうして吉田は、自分で云った通りに部活が終わり、すっかり校舎に人気のなくなった頃、美術室へ顔を出して耕一を連れ出した。
※
「彼女が云うには、鏡に映ったらしいんだよ」
「あの踊り場の?」
並んで歩いて、A棟へ向かう。中途半端に話を聞いていたため、耕一は部活にあまり身を入れられなかった。早く帰宅時間にならないかと壁の時計を何度も見上げた。吉田が美術室を訪れた時にはすでに片づけもして、荷物もまとめ終えていた。
「手鏡だよ」
吉田はスカートのポケットに手を入れて、それを取り出した。小さな桃色の四角いプラスチックの板。蓋を開けて見せたのはコンパクトミラー。
「目撃した一年女子は目にゴミが入ったか、痛くて鏡で確認しながら階段を昇っていた」
「危ないな」
「そうだね」吉田はコンパクトミラーをスカートのポケットに戻しながら続けた。「そうしたら、鏡の端にさっと人影が映った。女だった、と」
「誰か通り過ぎただけじゃないのか」
「ところが、そこで出てくるのがあの姿見だよ」
「うん?」
「振り返ったら、その姿見の中にいたそうだ」
「自分の姿を見間違えただけじゃないのかなぁ」
すると吉田は、ぷっと頬を膨らませた。「どうしてそう云うことを云うのかな、キミは」
「いや、悪い。なんかあまり怖くないし?」
「女が血みどろだったら信じたかい?」
耕一は思わず噴き出した。「さすがにそれだと噂ではすまないだろ。鏡なんかとっくに撤去されてる」
「そうかもね」
「で、その一年女子と同じことをして見ようってのが今日の目的なんだな」
吉田はにっと口の端を吊り上げて笑う。「イエース」
「まぁ鏡はあの世の入り口だったりするからな」
「うん? 叔父さんの受け売りかい?」
「誰だって?」
吉田は指を耕一に向けて「キミの、叔父さん」
「そうかも。忘れた」
A棟の階段に着いた時、いつかと同じように校舎はすっかり静まり返っていた。何処か遠くで誰かの声がしたけれども、それはどこかなおざりに切り張りされたかのようだった。
吉田は踊り場に立つと、姿見を背にしてコンパクトミラーを開いた。そんな様子を耕一はかたわらで突っ立って見ていた。夕日が吉田を赤く焼いていた。髪は茜色に輝き、頬を朱に染める。メガネのレンズが光を金赤色に弾いた。紅赤色の唇がゆるく開いて、わずかにこぼれたその歯の色は、セラミックかジンクかチタニウムかパーマネントか。手持ちの絵の具に、その色はあっただろうか。
耕一がぼんやりと見つめていると、ふいに吉田は見つめる手鏡から顔を上げた。
「なに?」
「いや、」
吉田の歯の色を考えていたとか云えるはずもなく、口の中で言葉を濁していると。
「あッ!」
「どうした?」
さっと吉田は振り返った。それから姿見の正面に立つと両手を壁に突く。上体を上に下に、右に左にとせわしなく動かし、熱心に鏡の中を覗き込む。耕一は、そんな鏡に映る吉田の姿を見つめていた。やがて吉田は手を放して二歩、下がった。
「ちぇー……」
鏡の中の吉田と目が合う。
吉田は、少し照れたように笑った。「見失っちゃった」
「見たのか?」
うん、と吉田は頷いた。「女の子だった」
「女の子?」
「少し年上かも知れないけれども、同じくらいだと思う」
「へぇ」
吉田は耕一へ向き直る。「見た?」
「いや」
「なんだよ、もったいない」
耕一は肩をすくめた。
「キミはせっかくなのに見られなくて悔しいとか思わないの?」
「そう云われてもなぁ」
見たのは吉田であって自分ではなく。きゃーとかぎゃーとか叫ばれたならまだしも、幽霊だとかそもそも現実感が乏しいのは致し方ない。見たこともなければ感じたこともない。信じるのか信じないのかと問われれば、信じるとは答えるが、さりとてそれがどのくらい本気かと問われれば、返答に窮してしまう。とどのつまり、その程度なのだ。
吉田は手の中のコンパクトミラーをぱたんと閉じ、ぽつりと云った。「捕まえられないかな」
「なに恐ろしいことを云ってんだよ」
「恐ろしいって?」
「捕まえてどうするだよ。サーカスの見せ物にでもするのか」
すると吉田はあはっと笑う。「面白いねえ、キミ」
「そうかい」
「やっぱりそのお腹には素敵なものがたくさん詰まっているんだよ」
「腹の話はするな」
「触らせてよ」
「断る」
残念、と吉田。「ねぇ、キミの叔父さんは幽霊を捕まえる方法とか知らないかな」
「本気か?」
「本気だよ?」
ジッと吉田が見つめてきた。そのレンズ越しの瞳をみて、吉田が冗談を云っているのではないと知った。
「わかったよ」だからそう答えた。「今度会ったら、聞いてみる」
耕一の言葉に、吉田は子供みたいに破顔した。
「ありがとう」
「いいさ。帰ろう」
「うん」
ふたりは昇降口まで並んで歩いて、校門を出た。
「そうそう」不意に立ち止まって吉田は云った。「お誕生日おめでとう」
にこっと吉田は笑うと、手を振りながら「また明日」と、駆け出した。
突然のことで驚き、ただただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
吉田の姿が見えなくなって、やっと歩き出せた。
せめて、ありがとうの一言くらい、云えれば良かったと帰りの道すがら耕一は悔やんだ。それにしても、どうして今日が誕生日だと吉田は知ったのだろう。委員長だから? 委員長だからクラスメイトの誕生日くらい名簿かなにかで知ってるとか?
それはそれでちょっと残念に思うのは、何故だろう。