301.(前後が逆になる)
ボーン・トゥ・ボーン
部活を終えて下校しようと階段を降りていたら、背後から呼び止められた。
「十勝くん、十勝くん」
立ち止まって振り返ると、階段の上に同じクラスの吉田あきらがいた。
吉田は赤い色のセルフレームのメガネの奥から真っすぐとした視線を耕一に投げてきた。
三年のクラス替えで同じになってひと月。女子のアクセサリは黒か茶色と指定されているらしいがメガネのフレームの色までは指定されていないようだ。
このひと月で耕一は、吉田が曜日によってフレームの色を分けているのに気が付いた。月曜日と水曜日が黒いフレームだったから気付き難かった。この奇妙なサイクルは、三年になって始めたらしい。他に、赤、緑、白とあり、ずいぶんハデだなと思ったのがきっかけだった。そして気付いた一週間と確認の一週間、更に確信の一週間と合計三週間をひとりの級友のメガネに費やした次第だ。と、別段自慢するほどのことでもない。他にも気付いた級友がいて、ただ耕一は口に出さなかっただけであり、今ではこのクラス委員長のフレームの色が曜日で変わるのはクラスの常識だ。
「なんか用?」
吉田は制服のプリーツスカートをひるがえし、階段を降りて来た。「用がないと呼び止めてはダメかな」
「別にいいんじゃねーの?」
吉田が追いつくと、並んで階段の続きを降りた。
どちらかと云えば小柄な吉田と一緒になると、自分の横幅が余計に目立つように思えて、気持ち、歩みが遅くなる。しかし吉田も歩調を合わせてきたので、つまらぬ努力は徒労になった。
「こんな時間まで部活かな」
「吉田ってさぁ。髪、色抜いてんの?」
「ん? なんでかな?」
「なんか赤い。あ、」
「なに?」
「髪が夕日で焼けたからだ」
「夕焼けね。色彩の詩人であるキミらしい勘違いかな」
吉田はふふっと笑って、肩に触れるか触れないかの髪を指で梳いた。そんな吉田の仕草はどこか大人びて見えた。
「なんだよ、シジンって」 耕一は努めて面白くなさそうな声音を使ってみた。吉田にそう感じてもらえただろうか。「俺はただの中坊だっての」
「絵描きの中学生はキミの云うようなただの中学生でないと思うけれどもね」
「絵描きなんて云えねーよ」それじゃ誉め殺しだ。
「そうかな? ボクはキミの絵、好きだよ」
「なんか見せたっけ?」
「あ、ごめん」
「何がだよ」
「去年の文化祭で見たんだ」
「あれを?」耕一は顔をしかめる。「思い出したくないなぁ」
「そうなのかい?」
「下手すぎる」
「どうあれ好きな人間がいるのだから、そんな云い方はどうだろう」
「そうかな」
「そうだよ」
「吉田って変わってると云うか、ちょっと変だな」
「それはどう違うのかな?」
吉田は、くりっと目を向けてきた。
「同じか」
「まぁいいや。キミって、ボクのことをみんなみたいに委員長って呼ばないんだね」
「呼ばなきゃダメなんか」
「いや、そんなことはないけれどもね」くふっと吉田は笑う。「ボクもキミのこと、トイチって呼んでないからおあいこか」
「用ってそのことかよ」
「あ、ごめん。すっかり横道に逸れた。キミは、この後ヒマかい?」
「ん?」
「一緒に来て欲しいところがある」
「どこだよ」
「A棟の二階」
「なんでだよ」
「イエスか、ノーか」
「だからなんでだよ」
「今日は委員会だったんだ」
「へぇ」
「で、イエスか、ノーか」
「だから、」耕一は云いかけて吉田を見た。
吉田の黒目勝ちの瞳が、赤いフレームのメガネの奥からジッと見つめていた。
「ダメかい?」
「いや、」
耕一が踵を返すと、吉田も横に並んだ。
「特に反応がなかったところ、キミはまだ知らないようだね」
「なにを?」
「A棟の二階から三階へ上がる階段の踊り場で幽霊を見たと、一年の女子が云い出したらしいんだ」
「へぇ」
「委員会で先生から話があってね。いたずらに話を広めるなと云うことさ」
「それは火に油を注ぐようなものじゃないかなぁ」
すると吉田は、くふっと笑った。「ボクもそう思うよ」
「あの踊り場って、鏡がなかったっけ?」
「そうだね。何かの寄贈だったと思う、金色の文字が入っていたらから」
「あそこだけだよな、鏡あるのは」
「ボクの記憶に間違いがなければね」
「ならそうだろうよ」
「信じてくれるのかい」
「疑うことでもないだろ」
「そうか。ところで、キミとボクはこれから幽霊を見に行くのだが」
「そうだろ?」
「何か特別な感情はないのかな」
「どんな?」
「いや。特にないならいい」
「気になるな」
「もしかたら本当に見えちゃうかもしれないのに」
吉田はぷっと一瞬、頬を膨らませた。珍しいものを見たと耕一は思った。
「吉田ってもしかして心霊とかそう云うの好きなの?」
「いるのなら、ぜひお会いしてみたいものだね」
「面白半分で行くなと釘を刺されたんじゃないのか」
「噂が嘘ならそれでいいじゃないか」
「って云うか、こんな時間で見られるかな」
「丑三つ時ならいいのかい?」
「何時だっけ」
「午前二時だね」
「そんな時間はさすがに誰もいないよなぁ」
「したがって、その時間で見たと云う目撃証言だったのならば嘘になる」
「ちょっとまて」耕一は云った。「じゃぁどうして幽霊が出たとかそう云う話になるんだ?」
「見たからだろう。逆に云えば、丑三つ時でない時間に見たから噂になって、つまり今から行けば見られる可能性があるってことだ」
「なんか面倒くさい話だな。つまり昼間に見たからそう云う話になったってことだろ?」
「そうだね。それにね、十勝くん。丑三つ時だけでなく黄昏時、つまり夕方もモノノケバケモノその他もろもろ出ると云われる時間帯なのだよ」
「へぇ」
「黄昏と云うのは、誰ぞと云う問い掛けから来ているらしいよ。はたしてお主はヒトかモノノケか、とね」
くふっと、吉田は楽しそうに笑った。
「したがって、期待していいと云うことだ」
「うちのクラス委員長がオカルトマニアってどうなんだろうなぁ」
半ば呆れ気味に耕一は云った。
「キミは興味ないかい?」
「いや」耕一は首を振った。「好き嫌いで云えば、好きな方だろうな。叔父さんがいるんだけど、その人がすっげぇそう云う話が好きでさ。よく遊びに来るんだけど、子供の頃は不思議な話とか色々聞かせてもらったんだよ」
すると吉田は、へぇと感心したような声を出した。「ぜひ、その叔父さんの話をボクも聞きたいね」
「ここのOBだぞ」
「なら、本校の七不思議とか知っているかな」
「今度会ったら、聞いとくよ」
「よろしく。何をしている人かな」
「なにが?」
「キミの叔父さん」
「会社員だよ。コンピュータ関係だったかな。あと、ときどき雑誌とかにイラストを描いている」
「血筋なんだね」
「なにが?」
「キミが絵を描くのは」
「どうかな──ほらよ。問題の階段だ」
耕一は立ち止まって顔を上げた。この先が、吉田の云う「幽霊の出た階段の踊り場」となる。夕日が差し込んで白い壁を朱けに染めている他は、取り立てて変わったところはないようだ。右手側に大きな姿見のような鏡が在るはずだが、ここからは見えない。
吉田が云った。「キミは幽霊を信じるかい?」
「さぁ。吉田は?」
「見たことのないものを判断するのは無理だよ」
「そうだろうな。昇ってみるか?」
こくり、と吉田は頷いた。まるで示し合わせたように、ふたりの足が同時に最初の一段にかかる。そしてやはり同時に階段を昇り、同時に踊り場へと出た。
「特に何もないな」
耕一は窓から外を見る。グラウンドにはまばらに体操服の生徒の姿が見えた。少し前までは運動部のかけ声や、吹奏楽部の楽器の音が聞こえたはずだが、今やすっかり校舎は静まり返っていた。
「この鏡も特に何もないみたいだね」
吉田は色々な角度から壁に掛かる鏡を見て、そして覗き込んだ。
耕一は半ば呆れ、半ば感心した。「よくできるな」
「何がかな?」
「それ。その鏡」
すると吉田は振り返って不思議そうな顔で耕一を見た。
「鏡がどうかしたかい?」
「いや。鏡って怖くないのか」
「どう云う風に?」
「右手を挙げたら鏡の中じゃ左手を挙げてるだろ? 当たり前のことだって頭では分ってんだけど、どうもすっきりしないんだよ」
すると、なるほどね、と吉田は云った。「十勝くん。鏡ってのは左右が逆じゃなくてね前後が逆になるんだよ」
言葉の意味を捉えあぐね、耕一は暫し考え、自分でもそうと分かるほどの抜けた声を出した。
「……あ──」
「なにかな?」
「よけいに、分からん」
くふっと吉田は笑った。「理解できないモノことそこ、恐怖の対象なり、と」
「ヤなヤツだな、おまえ」
「あ、ごめん。そんなつもりじゃないんだ」
「いや──」そんなに真っ向から真剣に謝罪されるとこっちが困ってしまう。
「鏡に映って怖いのは自分のお腹だよ」にこっと吉田は笑った。「キミのお腹は立派だねぇ」
「よせよ」
自分では少し太っているかなとは思うが、面と向かって指摘されると恥ずかしくなる。
吉田はにこにことしながら、耕一に近づいてくる。耕一は後退る。吉田の向う、鏡にその背が映っていた。それはまったく知らない人間の後ろ姿のようだった。