第3話/火刑王子は風紀を取り締まる③
焦げ臭さが鼻について、ウタハはうっそりとまぶたを持ちあげた。
まず真っ先に視界に飛び込む、怪しげな赤髪の男の顔面……これはよく見たら異郷の兄であった。
ゆりかごより幾分硬い揺れに身を任せて、ウタハはゆっくりと状況を整理する。
ものの焼けるすえた臭いと、どうやらカメリアのうでのなかにいる自分。数秒頭を働かせてみても、事件性を感じずにはおれない状況だった。
「え、埋められる?」
「埋めませんよ。むしろ、燃えてる室内でなんで平気で眠り続けられるんですか君は」
事件の首謀者かと思いきや、何も分からないまま救出してくれたらしい兄の頬やそで口に些細な煤を見つけ、ウタハは眉をひそめた。
(燃えた? 部屋が? なんで)
就寝前に火を扱った覚えがないから、火の不始末などまずあり得ない。大食堂から自室に引きあげたあとはパンを一個か二個程度食べて早々に眠ったはずである。
「そろそろおろしても」
「あ、どーぞ。ありがとうございます」
ウタハは命の恩人へさすがに丁重な感謝を述べたのち、周囲を見渡す。〈銀狼館〉の建物を少し離れた場所に見つけ、そう遠くない位置に退避してもらってからやっと自分が目覚めたことに気がつく。我がことながら、鈍感にもほどがある。
「あれ、燃えたのは上の階だけ?」
「僕らの寮室だけ丁寧に爆炎があがっておりましたよ。一応、消火しましたが。ああ、窓の一部が不自然に割れていましたので、火炎性の何かを投擲された可能性が高いかと」
「……ウタなんで生きてるの?」
「ただの火で燃え尽きる肉体ではないということでしょう。すばらしい頑丈さです」
では、あそこでひと晩明かしたところで命は無事だったわけだ。アルティメット健康体。
「それで、お心当たりは」
「ええ? ここに着いたのって昨日の今日ぇすよ。そんなんあるわけ……あったわ」
「あっちゃったかあ」
焼くだとか炎上だとか燃やすだとか、こうも火事に関する単語が浮かんでくるのは、十中八九、夕飯時の騒動のせいだろう。彼らが予告通り粛正に乗り出したのならこの事態も説明がつく。
「もしや、王位継承権第二位たる〈朝焼けの剣戟〉さまと会われました?」
「ぅえ、当たりぇす。え、すご。ランプの魔神?」
「ランプの魔神ではありませんが……一体なんですかそれ……〈朝焼けの剣戟〉さまが火刑を好むというのは、地上じゃ有名な話でして」
「はあ。困ったちゃんなんぇすね」
夜風が頬を撫でる。魔族の恩恵なのか、ウタハは気温による不調を感じることはないものの、夏でもかなり冷え込む地帯であることを察した。人の身だと薄着は堪えるだろう。
「そだ……地上って四季はあるんぇすか」
「また急だなあ。わずかですが、季節は移ろいますよ。一千年ほど前はもっとハッキリ分かれていたとか。ちなみに、地上にいくつかある魔界の入り口では年中雪が降っております」
「ふうん。んじゃ、ウタと例の王子さまで制服が違ったのは? あっちは夏服っぽかったけど」
「礼服のことでしょうか。それは我々魔族は肌を隠していたほうが都合がよいからで……あの、そこで眠るつもりですか」
カメリアの解説を話半分に、よいしょと草っぱらに寝転がる。滅多なことで危険に晒されない肉体であるのなら、夜空の星を見上げて入眠するのもいいねと思った。彼女はテコでも火刑でも動かない。
「いやー、憧れてたんすよねえこういうの。ウタ、こう見えて自然愛好家で」
「はあ」
「将来は、治安が良くて自然が息づいた外国で余生を送ろうと妄想してぁした。叶っちゃったなあー」
「うーん……〈朝焼けの剣戟〉さまに見逃してもらえるとは思いませんが。平和な生活を維持するためにも、何があったのか教えていただけませんか」
今にも眠ってしまいそうな妹のそばにしゃがみこみ、カメリアは丁寧に問うた。ウタハはまぶたを閉じて兄の怪しげな微笑を視界から追い出す。
「なにというか、ちゃんと学校来いよって絡まれたんぇす」
「しごく真っ当なご忠告ですね」
「だからって家燃やしますー? なんだっけ、サロンで寝泊まりはまずいんでしょ」
ウタハは怠惰なため息を吐き出すと、からだを横向きにする。完全に寝に入る体勢だ。
「問題ありません、明日には元通りに致しましょう。むしろ、以前より豪華な一室になるようこちらで手配します」
カメリアのことばに、もにゃりと口を動かす。了解の意だ。
「しかし、明日は一度文門に顔を出されてはいかがでしょう。〈朝焼けの剣戟〉さまは武門の二年生ですので、彼と顔を合わせるような事態にはなりませんし」
「……お兄さまは……」
ウタハは気だるげに口を開く。眠気に一瞬勝るほど、あの火刑王子以上にウタハを学院へ通わせたがるカメリアのことが不思議だった。
「お兄さまは、どうしたいんぇす。魔王からはテキトーにやれって言われてるのに。まじめ過ぎでは」
明度が異なる、ふたつの赤い視線が交わる。カメリアは掛けるべき言葉を吟味しているのか、細いまなじりをさらに細め、ゆったりと口火を切った。
「僕としては、真面目なつもりも、命令に背くつもりもありませんよ。結局は、そうだな。……ウタハさんの選択肢はひとつではないということです。この世界はかんたんには君を飽きさせない。そのことをまず、知ってほしい」
ウタハは仰向けになり、星を見た。兄の説法はやさしくて、おだやかな生命力の奔流があって、斜に構えた心では受け取るのに困るものなのだ。いつも、いつも。
「懐柔か」
手もとの雑草を引き抜きながら、「あなたの意図はこちらに届いていませんよ」とアピールする。しかし、臙脂の髪をなびかせて黒衣の男は微笑んだ。
「いいえ。真心です」
……〈雪原の椿〉。
ふと、彼の書類上の名前とやらが脳裏によぎる。吹雪のなかで、彼はさぞや目立つだろう。まるで、遭難防止に立てられた目印のための旗のように。
第3話/火刑王子は風紀を取り締まる - 了.