第3話/火刑王子は風紀を取り締まる①
カメリアは焦っていた。
朝、妹のウタハをたしかに起こしたはずが、夕方になっても学園にすがたを現さないことに、内心で肝を冷やしていた。
(起こした……よな? 教員として早めに出たものの、サロンまでは引きずっておいたはず)
カメリアは〈銀狼館〉に戻るため、自動回廊のそばをそれ以上のスピードで駆け抜けながら今朝の状況を整理する。
半覚醒状態のウタハに礼服へ着替えるよう誘導し、おむすびと水を与え、さらにサロンまで運んだ。登校のお膳立ては完璧だった。
(いいや、僕のミスだ……教室まで運ぶべきだった。サロンで待機させてどうする、彼女が自力で学院に赴くわけがない)
とはいえ、夕方である。
すでに放課後なのである。
朝のうちに気づいておけばちょっとの遅刻で済んだものを、まさか妹の無断欠席を知らされるまでのあいだに日が沈みかけているだなんて。
遠慮……どころか、畏怖されている空気は伝わっていた。生まれた瞬間から浴び続けているものだ、今さらどうということもない。むしろ、教員一同の葛藤と心労に同情したいくらいだ。
(何せ僕は、魔王の息子なんだものなあ)
魔族どころか、いきなり魔王の血筋を二体も送り込まれたのだ。それも父親の狙いだろうが、王国の上層部はさぞ苦悩されたに違いない。
「ああ……嘆かわしい」
次から次へと思考が尽きぬまま、学園本館から文字通り超高速で〈銀狼館〉まで帰参したカメリアは、庭園に転がるあるものを見つけて天を仰いだ。
それは、精巧に彫られた黒翼の天使像……ではなく、この世で一番眠気に貪欲な、妹のウタハそのひとであった。
物語は本日も、遅々として進まない。
…
「ううーん……よく寝たなあ」
「そうでしょうとも」
「おや、お兄さま」
草木に頬をあずけ、寝転がったままでくぅと縦に伸びをする。声を掛けてきた兄のほうをまどろみから覚めやらぬまま見やると、渋いかおをされた。とてもではないが「おはよう」などと調子のよい挨拶をぶっこめる雰囲気ではない。
「ちがうんですよ」
「何がです」
代わりに、言いわけをするとき特有の否定から入る論調を繰り出すと、すかさずカメリアから意図を問われた。ウタハはいっそ開き直って仰向けに寝転がる。
「だって……サイコーのお昼寝日和じゃあないすか……」
「お昼寝? 朝から夕方までの睡眠が?」
「いやー、あ、逆に? 考えてもみてくださいよ」
「何を……」
お次は論点ズラしである。以前、ウタハは元いた世界の母親相手にもよく活用していた。
「まじめに通うほうがおかしいのです。わたしは魔王の娘ですよ。登校しないほうが世のため人のためになりますワ」
「……一理ある。ありますが、こういうときだけキリッとするのやめてください」
今日一日を通して思い当たる節があったのか、まじめな兄が微苦笑を浮かべる。ウタハは、「勝った」と思った。
(大抵のことを微笑んですませるよなあ、このひと)
続けてそんなことを考えて、手先に触れた薔薇の花びらを拾う。
……灰を被ったようなすすけた赤。それがこの世界における薔薇色だ。
「良い色だなあ」
「……めずらしいことを言いますね」
関心ごとが移ろいやすいウタハの視線を追って、カメリアが肩をすくめる。
「しかし、それについては同意します」
「うん。やさしい色。こう、目と……心に」
「心?」
「落ち着くってことぇす」
「それは……」
ウタハは、異郷の兄が何がしかを言い終える前に、軽やかな所作で身を起こした。常態的に日光や月が薄もやで遮られている世界であるというのに、空は夕方らしい黄昏色をしている。遠くに見える墨色の稜線が、そのうつくしいグラデーションを際立たせていた。
むらさきだつ雲の波に押しやられる、淡いオレンジ……それも決して鮮やかとは言えず、灰みがかった、光の温度を感じられないものだったが。
「この空……壮大な仕掛け絵本みたい」
「絵本、ですか。それは言い得て妙かと。ここは所詮、箱庭ですので」
謙虚なカメリアの口から、はじめて人外らしい発言が飛び出る。自身の背丈より高いところにあるその整った相貌をおとなしく見上げると、彼は平熱の声で続けた。
「しかし、そこが愛おしいのです」
真正面から「地上愛」について語られたところで、現状のウタハに理解できることなどたかが知れている。
(ただ、この古風な景色を気に入る気持ちは、わかる)
やがてウタハは、頬を打つ髪の毛先を人差し指で巻きとり、ほかの話題がないかあてどもなく考えを巡らせた。乙女のトークは二転三転飛躍、なんでもアリなのだ。
「おなかへったなあ」
「では、せめて大食堂に顔を出しますか」
「そうしますかあ」