第〇話 紹介
すなわち、創造者とは、「聖書」の創造主である。
この書には、明らかに、形を変えて、創造者が登場する。
だから、創造者ヤハウェという名前はあえて付けず、広い意味での創造者という題名にした。
すべては被造物なのだから、反抗者等の二つ名を受け入れる事もたやすいはずだ。
この書の主人公はあまねく反抗者。里縁怨 羽牟。学生であり、少女であり、反抗者であった。彼女は可能性をもって、この社会の反抗者と成るのだった。
この社会は押しつけがましい倫理を持っていて、私達を押さえつけているのだ。
本当の私はどこにいるのか?本当の社会はどこにあるのか?
その本当を探す事も彼女の反抗者としての義務であった。
その愛こそが、彼女を反抗者たらしめていたのである。
これは彼女が社会に反抗し、リベリオンし、やはり、彼女の中の神をも見つけるお話なのだ。
彼女は社会の反抗者。
是非とも、社会の反抗者がどういう可能性を持っているのかを視ていって欲しい。
彼女の作戦は、社会に言動で反抗する。
その後、行動をもって、社会に反抗する。
社会というものが自分が加わる事でどう変わるのかを是非とも視たい。そういう信条が彼女にはあった。反抗者である自分がどうして、社会に加わるのだろう。反抗者として、徹底的に抗する事こそ、彼女の信条であった為に、社会の変質を見届ける彼女の視聴者としての面もあった。
社会の反抗者にして、物事の視聴者。それが羽牟の二つ名と成り得るのだった。
彼女はあまねく創造者とは、精神をも形作り、魂をも入れたもうた神の事を指している。
神が多面的な創造者という事は、あまねく創造者という言葉から分かるだろう。
しかし、社会の反抗者、物事の視聴者というものすら、創造したもうた神は言葉をも生まれたのである。
概念的に反抗者、視聴者をも創造された主は生きておられる。つまり、今この時も神は創造者として生き続けられているのである。
この書では、普通の姿で創造者が登場するが、それは非凡な設定であり、いわば、あまねく創造者すなわち、現実の神に繋がる。
いわば、肉体という媒介を通して、霊なる神が登場するのは、自分は生きているという事を示す為である。
神が生ける神である様に、自分も生きているという事を自己顕示的に示す事は、あえて言うなら、自分が生きていて、有機的な存在である事を示す為のものである。
自分が有機的という事は、ただ機械的に物事を処理し、ただ怠惰に人生をむさぼっているのではないという事である。確かに、機械的に処理するという事は、人生において、必要不可欠な要素であるが、小説となると、より有機的に処理しなければならないのである。ここに描き出すのも、やはり、有機的に処理した結果を書き込んでいるのであり、機械的とは、かけ離れた処理なのである。
有機的という事は神の言葉を処理出来るという事であり、機械霊感である「日月神示」もやはり、有機的に処理する必要があるのである。
自分の中で、有機的な判断を処理するのは、やはり、楽しいものである。
楽しむ事、遊びとも違う戦いである。つまりは、戦いを楽しむ事で、一種の好戦者と成っているのだ。
読者が読者である様に、私は好戦者であり、楽しむ事で、戦いに慣れていっている。
もしも、神が有機的でないのだとすれば、有機的な自分というものは生まれない。ゆえに、神は生ける神なのである。創造者が有機的に物を造られたからこそ、有機的に物事が動くのだ。
ゆえに、社会の反抗者、物事の視聴者である羽牟は、有機的に社会と物事が動く事を望んでおり、直接的に関わろうとする意志こそ、羽牟の望み通りなのである。この直接とは、有機的という事である。
つまりは、羽牟は直接的な手段によって、会う事を良しとしているので、機械的な社会に属する者に逆らいながら、有機的な手段によって、出会う事を良しとしている。
機械と有機。二つの元素がありながら、どちらかに付くというのは、彼女ならではの思考体系ゆえであろう。あまねく創造者と違って、社会は二分される。
つまりは、彼女にとって、二分された社会というものは望むものではなく、有機のみの社会こそが、彼女が絶対的に望むものなのである。絶対的な価値観によって、有機を選び取っているのだ。