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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

炭坑のカナリア、または正義の白うさぎ

作者:

 地獄の深淵にまで続いていそうな、暗い穴の奥を私は進んで行く。冷気が一気に私を襲い、反射的に身を震わせる。かつての坑道は思ったよりも狭く、時折冷たい雫が身体を濡らす。

 オイルランプの灯りで周囲を照らし出せば、壁面が濡れて雫が垂れ、緑青色の二次鉱物が盛んに吹き出し、岩を染めている。銅を含んでいるらしい。絵の具の顔料にするために採集し、鉱山の大事な副収入になっていたんだよな。これも。様々な鉱物の成分が流れ出て氷柱状になっている。 

 自分の手元しか満足に見えない。そんな息が詰まりそうな暗い坑道内に、唐突にそれは現れた。

 ヘルメットに長靴、つるはしを持ったごく普通の鉱夫に見えるが。

 無言で壁を指さす青年に私は頷いた。指さす先には、時が経ち、坑道の壁が崩れたことで現れたのだろう。青年と全く同じ顔、姿をした遺体があった。

「忘れないで」という悲痛な声に誘われ、冥界を治める神としては死者の嘆きを無視することなど出来ず、ここまで降りてきたが彼は自分の遺体を見つけて欲しかったのだろうか。

「50年ほど前にこの鉱山で大規模な落盤事故があったが、それの犠牲者か」

「そんなに時を経ていたのか! あぁ、お前さんにはすまないが、どうか私の婚約者がまだ生きていたら、これを渡してほしい」

 オレンジの花をモチーフにして、瑪瑙や翡翠が飾られた美しい髪飾りだった。話を聞くと、彼は結婚式の一週間前に事故にあって死んでしまったらしい。それはまた。私は髪飾りを受け取りながら聞いてみる。

「何か伝えるべきことはあるか」

「彼女がどうしているか。今、幸せなのかそれが知りたい。所詮、俺は死んでいるからいないも同然だ」

 とはいえ、ここは閉山した鉱山で誰も来ない。この暗い坑道に1人残して行くのも気が引けて、私は硫酸銅に埋まり、50年経っても死んだときと少しも変わらない、若いままの遺体を抱きかかえる。

「着いてこい。君だって本当は彼女に会いたいんだろう。覚えていてほしいんだろう」

 呆けたように固まる青年を振り返って目線で促せば、彼は慌てたように私の跡を追ってきた。長い長い坑道を上り、ようやく浴びた優しく日の光に思わず目を細める。

 地面の草地に丁寧に遺体を横たえれば、黒い服を着た老婆が走り寄ってきた。真っ直ぐに青年の遺体に近づくと胸にすがって泣きはじめる。

「あぁ。やっと、やっと、お会いできた‼」

「ベス。ベスなのか! ずっと待たせてすまないなぁ」

 幽霊である青年の姿は彼女には見えないらしく、ひたすらいとおしそうに遺体の髪や頬を撫でる。その傍に座って悲しそうな目をしながら、彼はそっとベスさんの頭に手をおく。

「夢で、神様が命日に会えると言ってくださったの。本当に会えるなんて」

「そうか。今日は7月20日なのか」

 草を踏み分ける音に目線を上げれば、何処から来たのか神父がロザリオを手に天にいるという神に祈りを捧げていた。

「これを、貴方の夫になるはずだった人に預かった」

「まぁ、綺麗な髪飾り。ありがとうございます。オレンジは結婚式の花だものね。あの人ったら。もう思い残すことは無いわ」

 大事そうに彼女は髪飾りを胸に抱くと、そのまま青年の遺体の上に折り重なるように倒れて息絶えた。その顔は幸せそうな笑みを浮かべている。私の目には、ベスさんの遺体が淡く光り、その体から魂が抜け出るのが見えた。青年の魂が彼女に近づき、二人は当たり前のように手を繋ぐ。その周りを嬉しそうに白い兎が飛び跳ね、天の道へと案内していく。こちらに頭を下げる二人に早く行け、と手を振って私は神父に目線を向ける。

「この遺体は50年ほど前の炭坑の落盤事故で亡くなった炭鉱夫のものだ。この女性は彼の妻となる人だった。どうか同じお墓に入れてやってほしい」

「かしこまりました。……あの、貴方様は一体どのようなお方なのでしょうか?」

 神父が躊躇い勝ちに聞いて来る。丁度、メールの着信を告げたスマホの画面を見て差出人を見て顔をしかめていた私は神父に向き直る。

「ただの炭鉱夫さ」




 昔、同僚と一緒に採掘唄を口ずさみながら石炭を掘っていた懐かしい日本のとある地方都市に足を踏み入れた私は、駅からよく見える夫婦煙突を見上げて在りし日の記憶を思い出していた。

 さて、何故私がこの地に足を踏み入れたかと言えば、この地に建つ大学に通う友人から呼び出しを受けたからである。

 駅から歩いて20分ほどで正門と、その後ろにそびえ立つ看護棟だと言う白い大きな建物が見えて来る。ホールを横目に鈴懸の並木を通り抜け、昼時と言うのもあり、お腹を空かせた学生の群れで混雑している学食に向かう。学食が入る、福利厚生棟の玄関からはみ出すほどの長蛇の列に思わずゲンナリしてしまう。そこで、唐突に肩を叩かれた。

「久しぶりだね、小林君」

「あぁ、久しいな。山田」

 黒髪黒目の日本人容姿の中ではかなり目立つのではないかと思わせる、藍色の髪に月を思わせる黄金の瞳をした腐れ縁の友人は、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべている。

「ごめんね、もう少ししたら3限が始まるからそれまでにはこの人ごみは落ち着くと思う」

 蝉しぐれの五月蠅い構内で、私は額に浮かぶ汗をぬぐいながら彼を睨みつける。なら、わざわざこんな暑い時間帯に呼び出しをしないで欲しい。

「学食のご飯結構美味しいんだよね。小林君は学生をした事が無いから大学生っぽい経験をするのも楽しいかなと思って」

 一応気を使っての事だったらしい。昼食代は山田持ちだと言う言質を取って、私はようやく眉間の皺をならした。

 暑さを避けて、福利厚生棟の隣に立つグレーの建物の三号館にある談話室で世間話をしつつ喧騒が落ち着いた頃を見計らって学食に向かう。写真が貼ってあって分かりやすい学食のメニューボードと睨めっこする。山田は目当ての品があるらしくさっさと列に並ぶ。あ、プリン美味しそう。

 昼食代は払ってもらったから水は注いでやって、私は山田と向かい合わせに座る。夏の暑い時期だからか、彼の持つトレーには冷やしうどんとさっぱりとしたトマトサラダが載っていた。なお、私は一番人気だと言うささみチーズカツにほうれん草のお浸しとサバの味噌煮、味噌汁、大盛りのご飯にデザートのプリンだ。

 サクサクのカツと共に白米を頬張っていると、友人が口を開いた。

「今日はわざわざ来てもらって悪かったね」

「全くだ。私は一昨日までドイツに居たんだからな」

 言外にくだらない理由だったら怒るぞ、という目線を向ければ苦笑が返ってくる。山田はポケットからスマホを取り出すとその画面を見せて来た。

「ねぶた祭りに湧く青森とウラジオストク6日間の旅?」

「そ。商店街の福引で豪華客船クルーズが当たったんだよね。良ければ一緒に行かない?」

「は? 二人で? 私たちの他には誰も行かないのか?」

 友人と旅行に行くのは吝かではないが、その相手が山田となるとどうしても躊躇してしまう。彼には未来予知の特殊能力があり、悲惨な事件を事前に察知してその解決に動くために、過去何度彼に誘われて一緒に外出して事件の解決を手伝わされたか、数えるだけで億劫になる。私の警戒を感じ取ったのか、彼が笑いながら情報を付けたす。

「僕の養い子である女の子も連れて行くよ。その子も一緒に行くのに危険な旅に巻き込むと思う?」

「なるほど、疑って悪かったな。私も是非仲間に加えて頂きたい」

「あのさ。一つ聞くけど、なんでそんな凛華(りんか)ちゃんに会いたいの? 君が誰かに興味を持つ何て珍しいね」

 すっと視線が細まり、凍り付くようなプレッシャーが押し寄せて来る。なんで私は「娘さんを僕にください」とでも、花嫁の父親にお願いに行く男の気分を味合わねばならんのだ。誤解だとばかりに、私は軽く手を振る。まぁ、でも、そんな反応をしたくなるほど大事な存在となるとやはり気になる。雨嶋さんには私からもお礼を言わなければならないようだし。

「それは気になるだろう? なんせ人間嫌いだったあんたがこうして人の世に出ておまけに友だちまで作っている。その切っ掛けを作った少女なら私からも礼を尽くさねばなるまい」

 山田の正体は死者への刑罰を司る地獄を体現する神だ。罪人を喰らう怪物として超常的な力を持つ彼は、地上の生き物からは常に畏怖をもって接せられていた。また、役目のせいで人の嫌な面しか見ることがなかった山田はいつしか人との関わりを厭うようになった。そのため、一時はヒマラヤの頂上の誰もいけない空間に氷の城を建てるというかなり気合の入った引きこもりだったのだ。あんたは某雪の女王か。そりゃ、あんな可憐な女性相手なら私だって心配して見に行くが、巨大な白蛇がとぐろを巻いて拗ねていても正直可愛くない。ホント、地上に引きずり出すと言う面倒くさい仕事を片付けてくれてありがとう。

「本当に驚いたんだよ。山田が人間の少女の後見人になるなんて」

 立ち上がり、対面の綺麗な藍色の髪に手を伸ばす。さらりとした手触りを楽しみながら、見開かれた黄金の瞳を覗きこんだ。「なんか負けた気がする」という理由で頑なに人型を取らなかった割には上手に化けるじゃないか。彼と同じく蛇の姿を持つ、元は神だった正義の悪魔はいつも何処かしら鱗が残っていたと言うのに。

「随分と可愛げのある姿じゃないか。これがその子の趣味なのか?」

 形の良い桜色の唇に指を滑らせたところで、何やら周囲の空気がオカシイことに気が付く。周りの人がやたら口元を押さえながら、こちらをちらちらと見られているような。

「……やはり私の様な部外者が大学に立ち入るのは問題だったのだろうか」

「単純に今の振る舞いがおかしいからだよ!」

「そうか? でも大学に着た時もわざわざこっちを振り返って見て来る方もいらしたし、さっきだって私を見て小声で何かを話していたぞ」

「はいはい。これだから美丈夫って奴は。後、凛華ちゃんは蛇の方が好きみたいだから、彼女の好みは関係ないよ」

 呆れかえったような顔をされる筋合いはないと思いながら椅子に座りなおす。残りを片付けようと箸を持ったところで肩にずっしりとした重みが加わり、次いで頭に顎が載せられているような感触がした。

「おい」

「いや、調度いいところに獏さんの椅子があったからつい」

 悪びれない口調に少し乱暴に肩から下ろせば、白とピンクに分かれた毛並をもつ可愛らしい獏がいた。なんで、すーちゃんまでここに居るんだ。





「アルちゃんったら久しぶり! お、プリン美味しそうだね! もーらい」

 止める間もなく獏が某吸引力の変わらないただ一つの掃除機よろしくプリンを吸い込む。食後の楽しみにしていたのに一口も無いなんて! 俯いているとさすがに悪いと思ったのか、すーちゃんが自分の財布を山田に投げ寄越してプリンを買ってくるようにお願いする。

 次いで自分の中の悲しみや怒りが湧いてくるそばから消え去る感覚に思わず顔を上げれば、舌を出すすーちゃんと目が合った。

 すーちゃんこと高橋李(たかはしすもも)は、獏の姿をした夢の神だ。世界中に散らばる生き物の辛いことや悲しい事などの所謂負の感情を食べて浄化する感情の最終処分場のような役目を持っている。私の感情も食べたな。

「何故ここに居る」

「いくらあの少女のお陰でマトモになったとはいえ、人に触れるなかで絶望してまた闇落ちしちゃったら今度こそ大変でしょうが! だから、ストッパーは必要でしょ?」

 真面目な事を言っているようだが、顔が完全に面白がっている。

「あ、そうだ。高橋さんも旅行一緒に行くから。部屋は小林君と高橋さんで同室ね」

 プリンを買ってきてくれた山田からプリンを受け取ると、山田がそんなことを言い出した。今からでも断っていいかな?









「初めまして。雨嶋凛華(あめしまりんか)と申します。こっちは私の友人のくろべぇちゃんです。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 黒い小猫を抱っこして丁寧にこちらに挨拶をしてくれた少女は、可愛らしいが平凡で特徴のない茶色の髪と瞳をしていた。とても荒ぶる神を宥めた胆力があるとは思えない。拍子抜けするほどにただの普通の子どもだった。

 それよりも、少女に抱えられた黒い小猫のフリをしている神獣が気になってしょうがない。

「これは丁寧にありがとう。小林在真(こばやしあるま)です。どうぞよろしく」

「山田君のそれはそれは美しいご友人にお会いできるとは光栄です。貴方の瞳は、初夏の森を思わせる綺麗な緑なのですね」

 さり気なく頬に手が添えられて距離が近くなる。えーっと、なにこれ? 一体どんな教育をしているんだ!? と慌てて戦犯であろう山田を見れば、ブンブン首を振られる。これが天然ならこの先が恐ろしいのだが。

 そこで、黒猫が少女の腕から降りて私の前で立ち止まると頭を垂れる。

「冥府の王よ。お久しゅうございます」

(えん)の主が決まったとかで、蘭瑞(らんすい)が荒れていたが誠であったか」

 黒い小猫の本名を呼んで、私は遠い目になる。

 くろべぇちゃん等と可愛らしく呼ばれているが、彼の正体は麒麟の中でも別格の角端だ。そのため、白い毛並の麒麟である蘭瑞は、ある種縁のことを神様のように崇拝している。そんな彼が主を選んだと聞いたときにはエイプリルフールかと思ったのだが、あの引きこもりを外に出せる少女なら出来るか。

「えっと、くろべぇちゃんとはお知り合いなのですか?」

「お噂を聞くくらいかな。私の世話をする女官の一人がこの子の幼馴染で、よく話題に上っているんだ」

「蘭瑞がご迷惑をかけて申し訳ありません」

「構わないよ。彼女の話は面白い」

 そこからは、山田やすーちゃんも交えて雑談をしていたが、船の乗船手続きが始まったのでいそいそと荷物を持つ。ウェルカムドリンクとしてお猪口で日本酒が配られたのだが、お酒が好きなすーちゃんは早速気分が良くなったようでフワフワと浮いていた。大量におかわりして酒樽まで飲み干しそうなすーちゃんに、これ以上迷惑はかけられないと小脇に抱えて回収し、これからお世話になる部屋へと向かう。扉の前には乗船前に預けたスーツケースが置いてあった。

 今回の部屋割りは私とすーちゃん、山田と凛華ちゃん+縁というものだ。ま、この獏が一緒なら悪夢に悩まされることは無さそうだな。内側の客室なので窓が無く海は見えないが、寝に帰るだけと割り切れば悪くない。クローゼットも大きく、持ってきた洋服が全て収まりそうだ。謎の歌を歌いながらベッドの上で荷物整理を始めるバクを後目に、私もさっさと片付けてしまおうとスーツケースを開けた。



 準備が終わり、時計を見ればいい頃合いになっていたので、私達は7階のパーティホールへ向かう。ホールの入り口で会った凛華ちゃんの装いは、シースルーチュールスカートワンピースで、胸元は黒に近い濃紺、チュール部分は青みがかったアイボリーというデザインがオシャレである。ハーフアップにしてまとめた髪のクリスタルの蝶の髪飾りと相まって、貴族令嬢の様な気品を漂わせていた。

「待たせて、すまない。凛華ちゃんはドレスと相まって大人っぽくなって良く似合っている。本当に綺麗だ」

「ですよねー、この色の濃さが少しずつ変わる生地が本当に綺麗で一目ぼれして買ってしまいました。褒めて貰えて嬉しいです!」

「ここには天然しかいないのか」

 疲れたような山田の発言に首を傾げつつ、きらびやかなホールに足を踏み入れる。

 白百合や向日葵、大輪のダリアなど華やかな花々であちこち飾られた明るい雰囲気のホールでは、正装した紳士や淑女が和やかな雰囲気で食事や会話を楽しんでいる。白いテーブルクロスが敷かれた長机には多種多様な料理が並べられていてお腹が空いて来る。

 それ以降は料理を堪能したり(ざく切りトマトのあっさりしたソースがかかった厚切りステーキやシーザーサラダ、フォアグラ入りの豪華なハンバーガー、ウニがたっぷり入ったクリームパスタやジャガイモの冷製スープ、オレンジのクリームチーズのムース)してその美味しさに感動したり、雑談したりしながら船での一夜は更けていった。


 夢を見た。小鳥が窓から飛び込んできてまた部屋から出ていく場面や、白い花を摘むという死の暗示が混じった夢に、憂鬱な気分で目を覚ます。獏なんだから、ちっとは凶夢を追い払う仕事をしろ! と八つ当たり気味にすーちゃんの巨大な鼻提灯を割って起こし、顔を洗って髪を整えダークブルーのシャツとデニムに着替える。

 今日は一日クルージングの予定なので、朝食を取った後は、太陽にキラキラと輝くソーダブルーの海を見ながら船内の探検に出かける。船内の設備としては、大人の香り漂うバーやカジノ、高級ジュエリーや時計、香水にコスメ、お洋服やお土産、雑貨などを扱うお店やアートギャラリー、サロンやフィットネスセンター、バスケットやテニスのコートに、インターネットカフェ、さらにここで結婚式したら一生の思い出に残るだろうウェディングチャペルや医務室まで完備している。本当、一つの街がそのまま船で移動していますと言う感じだな。レストランも高級な物からカジュアルなものまで揃っている。

 私は丁度目に入ったアイスクリーム屋さんでチョコアイスをもらい、(飲食料金は全てクルーズ代金に含まれる)、ココナッツアイスを貰って来たすーちゃんと共にデッキで海風に吹かれながら優雅に舐める。濃厚なチョコレートのコクと控えめで繊細な甘さが、何とも美味しい。お互いのアイスも一口ずつ交換して食べ終えると、凛華ちゃんとバッタリ会ったので手を振る。

 彼女も交えて、船内のお店を冷かして回っていたが雑貨屋で彼女が食い入るように一つの髪飾りを見ているのに気づいた。飴色に輝く美しいべっ甲細工で作られた髪飾りだ。値段をちらりと見れば、学生にはなかなかに躊躇する額だった。

「すみません、これをください」

 驚いたような凛華ちゃんに何かを言われる前にさっさと料金を払って彼女の髪に付けてやる。咎めるような縁の視線に苦笑を返す。髪飾りに私の魔力を付与して渡したのが気に入らないらしい。

「持ち主を守護する魔法をかけただけだ。あんたの主人を守るものは多いほうが良い」

「小林さん、すみません。あの、お代を」

「いいよ、大した額じゃない」

 その後、どうしてもと言う凛華ちゃんを断れなくて船内の有料レストランで彼女の奢りで昼食を取ることになった。レストランの鏡に何となく目線が行くと、そこには私の顔の他に骸骨が映っていた。また、死の暗示か。

「どうかした?」

 顔をしかめた私に気づいたすーちゃんが問いかけて来るが、私は答えず、その頭を撫でるだけにとどめた。





「冥界の神も世代交代の時期なんだな。君の跡はなんとかするから、安心して逝きなよ」

「となると、貴方が持っている冥界の鍵は次は誰の持ち物になるのでしょうね」

「大丈夫。海が見える高台にアルちゃんのお墓を作ってあげるからね!」

「皆私の事が嫌いなのか」

 マジックショーを見に行くと言う凛華ちゃんと、レストランの前で分かれた後、昼間からバーにくり出していた山田を交えて、今朝からの死の前兆が見えると言う話をすれば安心して逝ってこい! と言う返答しか返ってこなくて思わず半目になる。

「でも、冥界の神が死ぬなど有り得ますかね」

 縁が訝しげに呟いたところで、山田の瞳の焦点がずれた。有難いお告げの時間かな。

「白い百合の祭壇に祀られた聖母。神秘の花は殉教者の血を吸って咲く」

「山田君ったら何が見えたのさ?」

「暗い坑道か洞窟みたいな場所に小林君が一人でいるな。それと、どうも良くない花が今この船が向かっているウラジオストクで咲くらしい」

「私以外に危険が及ぶようなことは?」

 一番大事なのはそこだ。今は見えないとばかりに山田が首を振る。

「花を咲かせるための生贄には女性ばかりを選んでいるな。犯人は人通りの少ない場所を一人で歩く女性に目を付けて、昔の鉱山の跡地に攫いそこで犠牲者の頸動脈を切って、人の血を糧に咲く神秘の花に捧げている」

「まぁ、昔から女性と魔術的儀式の相性は良いからな。強力な魔力を持つような人の子も女性が多い」

「よし、小林が女装してわざと犯人に捕まればいいんじゃない。そしたらアジトも分かるし、非道な禁術も消し去れる」

 いや、何で私なんだよ。不満を思い切り貼りつけた顔を見てか、すーちゃんが元気よく前足を上げる。

「ふふふ、ではここでバクさんの魅惑の女性姿を披露しましょう!」

「あんたは絶対やめろ。化け物は庭に帰れ!」

「すぐバレルに決まっているでしょ。誰かお客様の中に女性に化けられる方いらっしゃいませんかー?」

「何この、バクさんの信用の無さ!」

 よよよよ、とベッドに蹲って泣きまねをするすーちゃんを見て、心配したように縁が毛並を前足でよしよし撫でる。いや、すーちゃんに気を使わなくていいんだよ。

「では、私が囮になりましょうか」

 控えめな声で縁が提案する。いやでも、縁って人の姿取れるのか。かつて、東インドに進攻しようとしたチンギス・ハンの軍を止めるために下界に姿を現した時も黒い一角獣と言う本来の姿でハンの前に降り立ち、「大王、早く戦を止め国に帰るべし」と告げ、侍従を驚かしたという逸話はあるが。その時だって人の姿じゃないし。

「こちらは如何でしょう?」

 緩くウェーブの掛かった腰まで伸びた漆黒の髪をした十代半ばほどの可憐な少女が立っていた。こちらを伺うように緩く首を傾げている。思わず息を吐いて見惚れてしまいそうになる夢幻のごとく美しい少女には、その年代特有の花がほころぶ寸前のような清らかな色香が漂っていた。

 さらに、漆黒のベロワに浮かぶ襟と袖の純白が可憐なワンピースは、清楚なお嬢様と言う容姿と相まってこれまた良く似合っている。エレガントな装いに、黒の令嬢という言葉が思い浮かぶ。これ、外に出したらまずくないか。この圧倒的な美貌と高貴さに蹴落とされて、下手をすれば誘拐犯も手を出してこないかもしれない。

「お前、嫌な仕事を部下に押し付けるとか。しかも、危険なのに」

「パワハラ反対―!」

 ヤジを飛ばす山田とすーちゃんの姿に米神に青筋を立てそうになるが、さすがに部下を危険にさらすのは本意ではない。

「分かった、分かった。世界の始まりから生きているような爺の女装など見られたものでは無いかもしれないが、その役引き受けよう」







 

 翌日。朝一番に部屋に山田が訪ねて来た。わざわざ凛華ちゃんから借りて来たのだという、レモン柄のワンピースを、魔法を使って私が着られるサイズに大きくする。それから、長い金髪のかつらを被り、山田に薄く化粧を施してもらう。鏡を見ればまあ、それなりに女性に見えなくもない何かが映っていた。

「この金髪のかつらはどうしたんだ?」

 山田の私物だと言うが用途が気になる。

「あぁ。昔、イタリアで金髪の人間ばかりを狙う連続殺人事件があったんだ。その調査で使ったものだよ。役に立って良かった」

 おとり捜査をした事があるならあんたがやってくれればいいのに。私の恨めし気な視線を感じたのか、山田が魅惑的な笑みを浮かべる。

「いや本当可愛いよ。モデルのスカウト来るんじゃない」

 私は男だから可愛いと言われても素直に喜べない。そうだ、男と言えば。

「縁って女性だったんだな。声の感じからてっきり性別は男性かと思っていた」

 傍らに静かに控える優美な黒猫に目線をやりながら尋ねる。ハスキーボイスな女性だって世の中には居るよな。先入観は良くない。

「神獣には本来性別はございませんから、どちらの姿にもなれますよ」

「へえ、そうなのか。原初に生まれた神は性別が固定化されているが、新しく生まれた子たちは自由なのだな」

 という事は、普段は白い髪の美しい少女の姿をした私の世話をしてくれる女官なあの子も、男に化けられたりするのだろうか? 冥界に帰った時に聞いてみよう、と疑問は頭の隅に置いておく。









 ウラジオストクには午前七時に着岸し、朝食を済ませた私は山田が予見した路地裏に一人で向かい、そして頭を殴られこの洞窟の牢獄に連れて込まれたのだ。全く、気絶したフリも楽ではないが私を運んだ男は筋骨隆々の30代半ばの男に見えた。首謀者の仲間だろうか。

 そして気づけば、目の前には黒い鉄格子。足には太い鎖の枷がしてあり逃げられないようになっている。

 さて、犯罪を犯した覚えもなく、不当に牢に閉じ込められた場合に取るべき手段と言えば。そうですね。脱獄ですね! 

 私は首から下げていた冥界の鍵をスコップに変化させると、犯人のもとに案内してもらえるよう地面を掘り進めた。全く気絶したフリも楽じゃなかったが、上手く敵の元に入り込めて良かったよ。

なんて事を考えながら外に通じる穴を掘り進めていると、馴染んだ気配が伝わって来た。

「主よ、お迎えに上がりました。あぁ、何とお厭わしい」

 鈴を転がしたような美声と共に、長い雪色の髪に翡翠色の衣を身に纏った少女が私の傍に降り立った。足に着いた枷に目線をやると、美しいピンク色の瞳からぽろぽろと涙を零す。あ、しまった。これ消すの忘れていた。と思うのと同時に魔法の気配がして鎖が消え去る。

「息災か、(らん)(すい)。良くここが分かったな」

 少女の姿をしていても本来は数千年の時を生きる白い毛並の麒麟である。彼女、蘭瑞は縁の幼馴染であり、私を主に選定し長く仕えてくれている女官でもある。泣かれるととても居心地が悪いので私はポケットに入れていたハンカチを取り出し、彼女の目元をそっと拭う。

「主が楽しんでおられるかどうか、少し下界の様子を映す玻璃の鏡に問うてみればこのような有様で。私身が引き裂かれるような思いをしました。血の匂いはしませんが、本当にお怪我はありませんか? 体調は?」

 普段、仕事をしろか人と接する時は笑顔で話せと叱るか、縁が如何に素晴らしいかのノロケしか聞いていないために主従契約を結んでいるとはいえ、下界でいう所のビジネスパートナーくらいの情のかけ方だろうと思っていたのだが。蘭瑞は本気でこちらを心配しているようだ。私の不思議そうな顔を見て彼女が首を傾げる。

「主様、どうなさいました? あぁ、体調が悪く? 早く冥府に戻りすぐに医者を」

「よい。いや、私は傍に居る相手の気持ちもよく分かっていなかったのだと思ってな。あんた、案外私の事好きだったんだな」

「何を今更。この私が尊敬も出来ないような良いとこ一つも無い相手に仕える訳がないでしょう」

 視線はこちらに向いてはくれないが、頬が桜色に染まっているのを見て思わず微笑ましい気分になる。頭一つ分低い頭にそっと手を伸ばして撫でる。

「蘭瑞が私を選んだ理由は、縁と同じ黒を纏っているからだと思っていたんだ」

「は? あの、縁様の見る角度によって仄かに別の色を帯びる稀に見る美しい黒と、貴方様の黒髪が同じな訳ないじゃないですか。縁様の黒、それはそれは見事なのですよ!」

「おうおう、確かに私の持つ光をも吸い込む深淵の黒とは違うな」

 分かっているから、そこまで馬鹿にしたような目で見ないでほしい。主泣いちゃうもんね。

「あの、主よ。ところで、その格好はどうなされたのですか?」

「忘れてた。わざと敵に捕まるために女装をしていたんだ。この衣装は借り物なのだから汚してはいかんな」

 うざったいカツラを外して、ワンピースを脱ぎ、動きやすい格好に着替える。それから、魔法で借りていた服を新品同様に綺麗にして、亜空間にしまっておく。後で返そう。

「何故主様がそのような危ない真似をなさるのです」

「文句なら作戦の発案者である山田に言ってくれ」

 そういえば、神獣は性別ないんだよな。

「蘭瑞って男の姿にもなれるのか?」

「は?」

 訝しげな顔をした蘭瑞を見て謝ろうと口を開きかけたところで、彼女の姿がぶれる。次にはいつもより背が高くなったすらりとした美青年が立っていた。腰までの長い髪は短くなり、白皙の美貌の中で輝く蘭を思わせる薄紅色の瞳が壮絶な色香を放ってこちらを見やる。なるほど。こういう色男路線になるんだな。

「お気に召しましたでしょうか? 愛しい主様」

「悪かった。あんたにそんな話し方をされると鳩尾辺りがぞわぞわする。ありがとう、落ち着かないからいつもの姿に戻ってくれ」

「釣れないですね。俺としてはそう悪くはない見目だと思うのですが」

 一人称まで変わったな。形の良い赤い唇から放たれるいつもと違う涼やかな低い声に、違和感しか出てこない。

「取りあえず、首謀者のところへ向かうか」

「御意」








「雨嶋さん、今日のパートナーは私だからよろしく。護衛は任せてよ」

 胸を張るバクの可愛らしさに胸を打たれながら、私は笑顔を向けて挨拶します。時刻は午前九時を回り、朝食を終えた私は高橋さんと共に寄港地であるウラジオストクの観光に向かうのです。

 格好つけているバクさんは最高に可愛いな、と笑み崩れる顔を何とか真顔に保ち差し出された前足をそっと握って握手をします。

「凛華さん、ここは異国ですからね。高橋さんの言うことをきちんと聞くんですよ。街の景色に見とれてはぐれたりしない様に気を付けてください。足元がお留守になって転んだりしないように。スリなどもいるようですから、知らない人には気を付けて。絶対に着いて行ってはいけませんよ」

 心配で堪らないというようにこちらを見上げて話しかけてくる黒猫に私は苦笑を向けます。小学生に向けるような注意を受けて、使い魔からの信用のなさに若干悲しくなります。使い魔のくろべぇちゃんは今日は珍しく私の親戚である山田君と一緒に行動をするようです。

 というか、一方的に「凛華ちゃんの使い魔なら僕とも家族になるわけだから親睦を深めたい」と山田君が言って、黒猫をわしゃわしゃと撫でて離さないのです。真相は絶対にもこもこふわふわの小動物に飢えていたからだと思います。

「じゃ、二人とも気を付けてね。行こう、くろべぇ君!」

 山田君たちと別れいつもと違い、今日はピンクのバクを抱っこしながらまずは街を見下ろせる鷲ノ巣展望台を目指します。遠くにはキラキラと輝く海と古くからの街並みが見えてとても綺麗です。待ちゆく人の格好は苺柄やバラ模様の服装があふれていて、自分の胸元に青いバラの刺繍が施された白いブラウスとスカートという格好が浮いていないことにひそかに安堵します。普段の二つ結びと違い、小林さんに買っていただいたべっ甲の髪飾りで髪をハーフアップにしたので、今日は少しだけ大人になったような気がします。

 総合博物館で本物の戦車の迫力に驚いたり、ロシアの民族衣装やアムールトラのはく製を見ていると時刻はお昼近くになりました。込む前にと、ガイドブックでおススメされていたレストランへと入ればすぐに席へと通されます。中は洞窟のようになっていて薄暗さが妙に大人な雰囲気を漂わせます。赤いビロード張りの椅子に座って早速三人でメニュー表を覗き込みます。

 手を上げて、二人分まとめて注文して次は何処に行くか話し合っていたところで美味しそうな匂いを漂わせた料理が運ばれてきました。

 高橋さんは待ちきれなかったのか、早々に真紅のルビーのような美しいスープであるボルシチに舌鼓を打っています。私も冷めないうちにとまずはロシア版水餃子なペリエニに手を伸ばします。モチモチした分厚い皮が特徴で中身はとろーりとしたチーズや、美味しさにビックリしてしまう脂ののった鮭が入っていました。ジャガイモ、ニンジン、キュウリのピクルス、グリーンピースなどがマヨネーズで和えられたロシアの代表的なサラダ、オリヴィエ・サラダもシンプルながら野菜の味が生きていて素敵です。日本に帰ったら家で作ってみるのもいいですね。そして、メインのキエフ風カツレツ。鶏肉の中にチーズが入っているのでナイフで切るとじゅわじゅわーと出てきてこの光景だけでご飯が3杯は行けてしまいそうです。お味は割とこってりしているので食べるのはこの一回だけでいいかもしれません。

「雨嶋さんは読書が好きなんだよね? それなら、このあと海外の書店を覗くのも楽しいかもしれないね」

「よろしいのですか? 実は私、狙っている本がありまして。私『麒麟の飼い方』という本が買いたいんですよね」

「麒麟ってそんな本が出るほどこの世界に居たっけ?」

「今現在確認されているのは5頭です。くろべぇちゃんと一緒に生活するから、『猫の飼い方』を定期購読してたんですけど、付録の猫じゃらし何かをちらつかせても遊んでくれなくて、とても悲しそうな目をされてしまうので、これは私が読んでいた本が違ったんだと思いまして」

「あー、雨嶋さんの使い魔って本性麒麟だもんね。でも、よくその本怒られなかったね。金蘭国を守る聖獣は麒麟なんだから不敬って思われそう」

「実際神獣扱いされている中国では、出版早々焚書されていますよ。でも、まあこの本の作者は元々金蘭の皇帝さんが自分の国の聖獣の生態を飼育日誌よろしくまとめた物ですから、大丈夫なんじゃないですか」

 海外出版であり、元々部数もそんなに刷られてなかったためか日本では手に入らなかったんですよね。ロシアなら神獣としての信仰する文化はないから、もしかしたら書店にあるかもしれません。無かったら次の休みは金蘭を旅行することにしましょう。

 とはいえ、書店で無事本を手に入れ次はシベリア鉄道の始発駅として有名なウラジオストク駅でも見に行くか、と足を向けたのですが。

 点在する噴水に癒される、これぞヨーロッパというようなレトロな建物が並ぶ通りを歩いていきます。そして、そこで不思議なものを見つけました。

「宇宙にあるブラックホールにも似ているよ。この先にホワイトホールって本当にあるのかな!」

 ワクワクで顔を輝かせた高橋さんが、ピョイと黒い穴の中に消えてしまいます。慌てて私も穴を覗き込み、無事かどうか声をかけてみますが。

「え?」

 ドンっと強く押される感触と共に、私は暗い穴の中に落ちていきました。






 全部で地下9階分もあるという広大で美しい地下世界は、迷路のように無数の坑道が広がっていた。雨水や地下水の浸食によって出来たのであろう湖や吹き抜けになっている大広間の様な部屋を通り抜けていると何だか別世界に迷い込んだような錯覚に陥る。にぎやかな掛け声とノミを振う様な軽快な音に誘われるように歩を進めれば小人な炭鉱夫たちが元気よく歌いながら石炭を掘り出していた。

「おー、これは地下の王ではありませんか。旦那、こんな所にどうしたんです?」

 赤い帽子をかぶった小人の一人が、こちらに気づいて手を振ってくる。

「旦那、今ここはちょっとまずいんですよ。頭のイカレタ聖職者が神の国を地上に実現させようと人間の女を生贄にしてるんでさー」

「そうだ、俺らが代々守って来たこの地下宮殿を我が物顔で使い血と怨嗟を撒き散らかしやがる。でも俺らは地下から宝を掘る事しか能がねぇから何もできねぇ」

 周りの小人も悔しそうにうなずく。次いでリーダー格の様な赤い帽子の小人が懇願するようにこちらを見る。

「頼むぜ、旦那。あいつを遣っ付けてくれ。自分は汚れた世を正す救世主だなんてあいつは言っているが、あいつを支配者になんかしたら、この世は地獄の再現になるだろうよ」

「元よりそのつもりだよ。そいつが居る場所は分かるか」

小人に教えられた礼拝堂は地下へと続く階段を3階分降りた場所だった。塩で作られたシャンデリアがキラキラと輝き、前面には岩塩の彫刻で忠実に「最後の晩餐」の様子が描かれた礼拝堂に出た。祭壇飾りまでもが岩塩の彫刻で出来ていて目を見張るほどの美しさだ。

「でも、人の気配がないような。でもそうかと思えば何十人も周りにいるような気がするし、何だか不思議なところだな」

 首謀者はどこだとキョロキョロしていた私のもとに、唐突に黒い塊が突進してきた。ふら付きながらも何とか受けとめる。

「縁? あんたどうしたんだ? 凛華ちゃんと一緒じゃなかったのか」

「どうしましょう、主の気配が唐突に消えました。この世界のどこにもいない」





 もう会えない。その花園に足を踏み入れた時に胸に去来した思いはそれでした。

 むせ返るような甘い花の香はどこか葬儀場を思い起こさせます。目の前には天井から壁まで隙間なくびっしりと胡蝶蘭の花で覆われたトンネルが広がっていました。黄色やピンク、白、紫という色の洪水に目まいがしてしまいます。

「地球産ブラックホールの先はホワイトホールじゃなくてフラワーホールだったんだね! とってもいい香り~。ねぇ、早く行ってみよー?」

 あざとくこちらの服の裾を掴んで小首を傾げてオネダリするバクの可愛らしさに、顔が笑み崩れている自信しかありません。

 それに焦れたように高橋さんが花のトンネルへと歩を進めます。私は慌てて追いかけるように小走りでついて行きました。あー、カメラで写真を撮ってもいいでしょうか。

「見て、これカンガルーポーってお花だよ。オーストラリア南西部の中心部で咲く多年草でその姿をカンガルーの足に見立ててこの名が付いたんだ。正式名アニゴザントス。あまり寒さに強く無い花だからこの場所で見るとは思わなかった。まぁ、地下は温度が一定だからいいのかな」

 高橋さんは植物に詳しいようです。アヤメに似た細長い葉を持ち、赤やピンク、黄色やオレンジといった鮮やかな花を咲かせていています。お花にはどこか品を感じます。花の道を通り抜けた先の空間にもまた胡蝶蘭やバラが咲き乱れていました。天井からは白や紫の藤の花が垂れさがっていて、頭がぼーっとするような甘い香りと共に異次元に迷い込んだような気分にさせられます。前方には桜の木がありその周りには菜の花が……。っと思いましたがよく見ると桜の花はピンクの胡蝶蘭で、その周りも菜の花に見立てた黄色い蘭が咲いています。

「桃源郷か、楽園か」

 写真を撮ろうとショルダーバックに入れていたスマホを取り出したところで、ピリリとした殺気を感じました。高橋さんが庇うように私の前に出ます。

「バクさんが可愛いからって甘く見ないでよね!」

 凶悪な唸り声と共に虎に似た翼を持つ獣がゆっくりとこちらに歩いてきます。

(きゅう)()……」

 小さいころ山田君に買ってもらった本『良い子のためのモンスター辞典』の記述を思い出すなら、この獣は中国の四つの凶悪な怪物である四凶の一人です。何でロシアに中国の怪物が居るのかと思いますが、中国との国境はすぐそこですし、妖怪の中にもグローバル化が進んでいるのでしょう。窮奇は人の言葉を理解し、背の翼を用いた飛行能力があります。カギ爪とのこぎりのような歯で人を殺して食べますが、悪人には自分が殺した獣を贈り物として差し出すようです。人食いモンスターという事は。

「大変です、この獣真っ先に私の柔らかいお肉を狙ってきます!」

 私の声に応えて、何事か叫んで突進したバクさんは軽く窮奇の前足で払われて吹っ飛ばされます。飛んできたバクを受け止め、後ろに下がらせホッと息を吐いた私の目の前に大きな口を開けた虎が迫ってきます。真っ赤な口内をぼんやり見ながら、狼に食べられる赤ずきんもこんな光景を最後に見たのかしら、とのん気に脳内で呟きました。






「どうしましょう。主の気配が唐突に消えました! この世界のどこにもいない」

 どうも。死後の幸福を司る冥府の神な小林在真です。突進して来た、黒猫に化けている神獣・角端を受け止めつつ私は彼に質問する。

「主って凛華ちゃんのことか? 山田やくろが一緒にいて攫われるなんて、一体何があったんだ」

「いえ、本日は山田さんと共に行動していたので、凛華さんとは別行動だったのです。彼女には李さんが付いていたので大丈夫だと思ったのですが、二人とも気配が途絶えました」

「すーちゃんは野に咲く花の様な阿呆だぞ。大変だ、山田は何でそんな無責任な采配にしたんだ。あの蛇はどうした!」

「未来視で私が凛華さんと共に居た方が危険だから、と外されました。どうも、犯人の狙いは私の身を捕えることでもあったようなので。山田さんは路地裏で女性を誘拐しようとした男を捕まえて、どこかに消えていきました」

 山田の本性は人食いの怪物だから、その犯人の末路は決まったようなものだ。今頃彼の餌になっているのだろう。さすがに仁の獣の前で流血沙汰は自重したらしい。

「主様、玻璃の鏡で探せば見つかるやもしれません」

「そうだな。まぁ、すーちゃんだって腐っても神だ。盾位には役に立つだろう。肉布団もあるわけだし」

 などと思っていた時期が私にもありました。蘭瑞が取り出した、地上の生き物の様子を常に見ることが出来る冥府の秘宝である玻璃の鏡を覗きこめば、魔法で作り出された花園が映し出される。二人は虎に似た妖怪と対峙しているらしい。格好良く彼女を庇ったのはいいが、すーちゃんは軽く吹っ飛ばされる。マジデ使えねーな、あの神! 凛華ちゃんに鋭い牙が向けられるのを見て縁が本性に戻ると弾かれるように走り出した。私も間に合わない事は分かっていても玻璃の鏡からの情報を元に彼女達の元へと急ぐ。その途中四凶の一角である混沌に出会ったが、口上の途中で「俺様に挑むとはよほど死にたい神獣のようだ。精々俺様を……ぎゃー!」と「どけ」の一言で燃やし尽くしたのはどうかと思うよ、縁。仁義を弁えた神獣って何だっけ? 美しい色が押し寄せる桃源郷を思わせる場所にたどり着いた私は、信じられないものを見た。










「きゃー、トラちゃんこっちおいで~。わー、捕まえるの上手だね~」

 猫雑誌の付録である猫じゃらしを魔法で大きくして窮奇に向かって振ってあげれば、ゴロニャーンと子猫よろしく嬉しそうにじゃれ付き始めます。捕まえるか捕まえないかのギリギリで動かしていくと、本能が刺激されるようです。む、早い。中々やりますね。ほれほれーと動かしていていけば、ついに猫じゃらしが窮奇の口に捕えられて奪われてしまいました。ゴロンとお腹を出して前足で棒を持ち、ガジガジと咥えるさまは虎とは思えないほど愛らしいです。思わず写真をパシャリと撮ると、満足したのか猫じゃらしを放り出し甘えるように鳴き出します。喉のあたりを撫でてやれば、ゴロゴロと満足そうに鳴き出します。猫かな?

「あ、えーっと、大丈夫?」

 聞き覚えのある声に手を止めて振り返れば、小林さんが若干引いたような顔でこちらを見ていました。失敬な。って、おや。傍らの蓮の花が刺しゅうされた中華風の薄緑色の着物を身にまとった少女は。

「蘭瑞さんじゃないですか。お久しぶりです。元気でしたー?」

 相変わらず人形のように整った美少女ぶりに眼福です。思わず抱き着けば、すぐににっこり笑って抱き返してくれますが、その目がすぐに焦ったように横を見ます。

「あの、凛華様。どうか縁様の方を先に労ってやって下さいませ」

「いいえ、構いませんよ。久しぶりに蘭瑞に会えて嬉しいのでしょうから。ええ、全く気にしていません」

 底冷えのする声に、私はおっかなびっくりくろべぇちゃんの方を見ます。

「いやだって、くろべぇちゃん機嫌悪そうだったし触らぬ神に祟りなしかなって」

 冷や汗を掻きながら目線を合わせずにいると、盛大な溜息が聞こえてきて思わず背筋が伸びます。次いで、お腹のあたりに控えめに顔が摺り寄せられました。真珠色の一角が輝く黒絹のような美しい毛並の鹿に似た獣は、優雅に首を垂れると撫でろとばかりにこちらに体を摺り寄せます。本当にいつ見ても見事なものです。(たてがみ)に指を通して首筋を撫で、優しく頭をなでるとゆっくりと瞳を閉じて気持ちよさそうな表情を見せます。

「しかし、窮奇が牙を抜かれた猫になるとはさすがルラの親戚だな」

 感心したようなセリフにハッと我に返ると、小林さんがこちらを見てきます。高橋さんと窮奇はいつの間にか通じ合ったようで、一緒に追いかけっこをしています。

「取りあえず、ここに呼んだ犯人を見つけない事にはまた狙われて面倒だろうからな。片づけに行くよ」 

 窮奇と手を振って別れ、私はくろべぇちゃんの背中に乗せてもらっていざ出発です。ところで、山田君はいったい何処に行ったんでしょう?






 美しい花園の景色とは裏腹に怨嗟の声が聞こえてきて、私は眉根を乗せる。ずいぶんと集めたものだな。殺された被害者の恨みを糧にして強力な守りの結界を組み上げるとは並みの術者ではないようだ。ここで、憎しみにとらわれて過ごすよりも早く天へと連れて行ってやった方がいい。山田がかつて見た神秘の花を咲かせるための生贄にされた少女であろう、魂を見つけるために私は足を進める。

「あんたが死ねばよかったのに」

 すすり泣きとともに現れた、もう既に人の形を失った黒い靄に私は間髪入れずに消臭剤を振りかけた。

「あ、主様。それは?」

「消臭剤は除菌だけでなく除霊も出来るんだ」

 泣かれて心が痛むが、これも必要なんだと機械的に靄に向かって振りかけていくと、白くなっていき段々と人の姿になっていく。

 凛華ちゃんが縁の背から降りると気づかわしげにこちらに近寄ってくる。それを見て少女の霊の一人が彼女をにらみつけると「お前も仲間になれ!」と手を刃へと変化させる。え、何その攻撃初めて見た。だが、凛華ちゃんは慌てない。

「初めまして、美しい人。お近づきのお礼にガーベラの花束を上げましょう。このように武骨なナイフより、可憐なお嬢さんには花が似合う」

「は、はい、ありがとうございます!」

 少女の霊はボンっと赤くなると嬉しそうに花束を受け取った。

「いいな。私なんてこんな化け物に」

 恨みが深いのかまだ上手く人の形に戻れない少女が嘆く。

「何を仰っているのですか。ほら、顔を上げて可愛らしい顔を見せてくださいな。そのキラキラ輝く緑の瞳はとても魅力的ですよ。どうか、私も貴方の思い出にして頂戴?」

 それに気づいた凛華ちゃんは、すぐにカメラを差し出す。そのイケメンぶりに少女はノックアウトされたらしく、鼻を押さえながら幸せそうに写真を撮っていた。あ、浄化されていってる。

「誰がハーレムを築けと言いましたか」

 横で小さく呟く縁に私も大きくうなずく。彼女はあっという間に少女たちを虜にし、ハーレムの王様か何かのように傅かれていた。王子様って怖い。

「あの、おそらく君たちの恨みを糧に魔術師は強くなっている。君たちが怨めば恨むほど犯人の力になっているんだ。君たち自分を殺した奴を守りたいと思うか?」

 一斉に首を振る彼女たちに頷くと、私は蘭瑞に目線をよこした。すぐに心得たように蘭瑞が心地よい旋律の歌を歌い始める。それを受けて、私はそっと目を閉じる。ぎゅっと冥界の鍵を握りこんで魔力を通せば冥府へと通じる扉が出現した。

「天界は君たちを歓迎しよう。心清らかな乙女たちよ、どうか天では安らかに」

 優しい光が少女たちに降り注げば、彼女たちは誘われるように冥府の門をくぐっていった。これで、犯人の力を削げたとは思う。

 探すのも面倒だし、彼女たちの魂を解放した後ならもう遠慮はいらない。鍵をスコップに変えて掘ればすぐに別の空間とつながる感触がして穴に入り込めば、目の前には折り重なった女性の遺体の上に血を吸って咲く美しい白百合を台座にした聖母が微笑んでいた。部屋は金箔で覆われていて目がちかちかする。入り口そばにはロシアを守る聖鳥である火の鳥を模した黄金の像が置かれていた。調度品まで金だし、金の延べ棒を積んでピラミッドまで出来ている。ここまで金尽くしってちょっと趣味悪くないか?

「この世は不正を司る灰色の兔と正義を司る白い兔の戦場。そして必ず不正の兔が勝つ。それを憂いた地の嘆きが聞こえますか」

 振り返れば、何処にでもいるような男が立っていたがその眼はどこか焦点が合っていない。あれ、この男。前にドイツで会った、炭鉱夫とその婚約者の葬儀を任せたあの神父じゃないか! まさか、こんなところで会うなんて。

「私は今の穢れて不正の兎に支配された世を変えたい。人の幸福は、神の教えに従い日々の勤めに励むことだ」

「人間にとって一番幸福なのは死ぬことだろう」

「それ、今の地球で言ったらサイコパスな発言になるから止めときなよ」

 呆れたようなバクの言葉に私は首をかしげる。

「私はこの世界を楽園のようには作っていない。それは私が治める冥界の役割だからだ。この世界は魂がより洗練されるための修行の場として作った。その世界で何をするかは自由だが、不完全なここで自分が何を成し何のために生きるのか、それを常に神は問いかけているし、死後には是非長い人生で見つけたその答えを聞かせてほしいね」

「嘘だ。神が作り出したこの世が不完全なわけがない。やはり聖なる一角(インドリク)獣を捕えたお前は神の名をかたる大罪人だ。だから花を通して死を与えたのになぜ死なない」

 やたらと、死の前兆を見た原因もやっぱりあんたか。聖母の目が開くと、その姿が巨大な2本の鎌を備えた灰色の巨大な兎へと変わる。いや、不正の兎が出てきたけどいいのかな。








 兎を見た瞬間、私は何かに導かれるようにバレッタを手に取りました。鼈甲が黄色い銃へと変わります。容赦なく魔力を吸われていく感覚に、これって銃の姿をした魔法の杖なんだなと妙に感心してしまいます。後で調べよう。銃口を兎へと向ければ光輪が弾けるように膨張して、光の尾をもつ金の弾丸となって兎を打ち抜きました。獣は悲鳴を上げると純白の兎へと姿を変えどこかへと去っていきます。魔法の余韻であるキラキラとした金の粒が何だか星空みたいです。最終兵器が打ち破られたことに戦意を喪失したのか老神父はその場にへなへなと座り込みました。

 獏さんがロシアの警察に通報して、老神父は殺人の罪で連行されていきました。蘭瑞さんは冥府で仕事があるようで名残惜しそうにくろべぇちゃんを撫でて帰っていきました。船に戻ると夕暮れ時にオレンジに輝く海にポツリと街の明かりが見えてとても綺麗です。






「ここに居たんだな」

 血のかおりと共に、私の体の半分が大蛇の口に飲み込まれる。頬を撫でる舌の感触に相変わらず山田のじゃれ付き方は物騒だと鱗をなでる。満足したのか私から離れると今度は頭を肩口に摺り寄せてきた。瞳孔が細い黄金の瞳が伺うようにこちらを見るが、次いでハッとしたように瞳を大きくする。

「へー、警察から逃げたのか。それ以上罪を重ねてどうする気だ」

「煩い、怪物め。お前たちのせいで神は憂いておる」

「そういう思考だから、あいつが磔刑されたくなっちゃうの分からないのかな」

 死の呪いが込められた短剣に私は片眉を上げる。叫び声をあげながら突進してくる男を、山田が口を開けて飲み込んだ。

「裁定を覆すチャンスはあったのに残念だ」

 山田の腹の中には地獄が広がっているので、彼に飲み込まれたら最後、裁判なしに地獄行が決定してしまうのだ。

「今日は食いすぎた。口直しがしたいな」

 藍色の髪を靡かせた青年の姿に化けると、甘えるようにこちらの服の裾をひっぱってくる。本能である吸血衝動が強くなったらしい。仕方ないなとシャツのボタンをはずして首元を露わにすれば、嬉々として牙を立ててくる。

「やはり神の血が一番おいしい」

「それはどうも。黙って飲め」

 乳飲み子ならぬ血飲み子だな。なんてくだらないことを考えながら、手持無沙汰だからとそっとその柔らかな髪をなでておいた。

 終日航海の次は青森に着岸してねぶた祭り見学になる。明日は一日寝ていても問題ないし、まだ眠れそうにないからレストランで飲みなおそうとメインダイニングに向かえば、そこでも酔った麒麟とその主の甘ったるいやり取りに遭遇する羽目になるなんて、私は予想だにしなかった。凛華ちゃん、酔った人間に手を出すのはどうかと思う。







「あの、猫さんの姿にはならないの?」

「もう置いて行かれるのはごめんですからね。この方が貴方を捕まえて置けるでしょう?」

 罰の意味も有るのか、私が苦手だと知っている青年の姿を取っています。相変わらずイケメン過ぎてとても逃げたくなります。くろべぇちゃんはお転婆防止のためか私の手をしっかり握って離しません。信用無いの悲しいけど、仕方ありませんね。

 夕食後、船内の映画館で映画を見たのですがまたお腹が空いた私はそのまま部屋へと戻らず、メインダイニングでは夜食を食べられるようなので、私は早速そこに向かいます。魔力ってカロリー結構消費するのでしょうか。ダイエットには新魔法の開発がいいのかもしれません。

 白いテーブルクロスが敷かれた長テーブルにはサンドイッチやゆで卵、ハムに果物が用意されていました。イギリス船だけあってフィッシュアンドチップスやローストビーフ何かも置いてあります。ケーキも色んな種類があってとても美味しそうです。夏みかんのムースケーキとか珍しいですね。くろべぇちゃんは一口サイズのチョコレートをつまみながら優雅にワインを開けていました。ボトル1本、注文って。まぁ、キープが出来るし旅程はあと4日残っているから大丈夫なのでしょう。何て思いながら夜食のたまごサンドをパクついていたのですが、みるみる内にボトルの中身が減っていきます。

「えっと、くろべぇちゃんは大丈夫? 飲み過ぎてない?」

「自分がどれだけ酒を飲むと酔うのかの把握は出来ています」

 その言葉に嘘は無さそうなので、普段がストイックなのだから休みの時くらい羽目を外すのも悪くはないかと思い直し、デザートコーナーに目を向けます。アイスクリームも良いですね。あぁ、でもレモンのタルトも美味しそう。いっその事両方? いやでも、カロリーが。と内心で葛藤しつつ、くろべぇちゃんも何か要らないかなと彼の方に視線を戻して絶句しました。ほろ酔い気味のためかいつもは凛とした雰囲気の切れ長の眼差しが、今はとろりと柔らかく解けています。火照ってきたのか白い肌が薄紅色に染まり、ほうと息を吐く様が何とも色っぽい。周りの喧騒が静まり返り、お客さんの中にはゴクリと喉を動かす人もいます。グラスを傾けて満足そうに酒を煽る姿に、目線が釘付けになっています。うーん、さすがですね。

「美しいね」

 思わず口をついて出た感想に、彼はふわりと花が咲いたような笑みを浮かべた。その笑顔を見た周りの人たちが顔を真っ赤にして蹲ってしまいます。被害がすごい。しかし、これだけ綺麗だと心配ですね。不埒な輩に攫われたりとかしないかな、やっぱり猫の姿に戻ってもらった方が、と逡巡したところで頬に手が添えられました。いつもより、手のひらの体温が熱いですね。

「貴方の憂いが無くなるのなら、首輪でもいたしましょうか」

「待って、何でそうなるの!?」

「でも、人の子に飼われる動物は、首輪を付けることでもう自分は人の物だとアピールなさっていますよね」

 何か問題が? と首を傾げる彼に本性は獣だったと私は頭を抱えます。あー、今すぐに「麒麟の飼い方」を読みたい気分です。

「何かすごいパワーワードが聞こえた気がしたけど、二人ともここに居たんだな」

 救世主現る! パッと振り返れば空に浮かぶ正義の女神の天秤に輝く星か、はたまた極上のエメラルドに似た瞳をした小林さんが、フィッシュアンドチップスとビール片手に近寄ってきました。

「何か縁が機嫌悪い気がするのは気のせいか。えーっと、これ食べる?」

 ポテトを差し出す小林さんに、くろべぇちゃんは黙って首を振ります。

「で、首輪って何だ? 凛華ちゃんってそういう性癖なのか?」

「凛華さんが、私が他の誰かに奪われるのではないかと不安がっておられたので、手っ取り早く主人の存在を主張する道具として最適だと思い、首輪を提案しただけですよ」

 とんでもない勘違いを否定する前に彼がフォローを入れてくれます。潤んだ紫の瞳と目があい、どうしてか胸がかき乱されるような落ち着かない気分にさせられます。頭に靄がかかったように思考がまとまりません。精神干渉の魔法を喰らったみたいだ。だから、問いかけるような目線にとんでもない答えを返してしまったのでしょう。

「それなら跡を付けてもいいかな?」

「構いませんよ。焼き印をお付けになられますか」

「仁の獣の癖に発想が怖い!」

 私の心の声を代弁してくれた小林さんに感謝しつつ、発想がえげつないなと思ってしまいます。あー、でも神獣は怪我の治り早いから、それくらい酷い傷じゃないと跡を肌に残せないとかそう言う事でしょうか。

 しかし、このフワフワとしていてどこか隙があって色っぽい態度に普段と異なる言動。これってやはり。

「君、酔ってるでしょ? とりあえず水飲もうか」

「口移しなら大歓迎ですね」

 耳元にねっとりと絡みつくような甘ったるく低い囁きに、周りが声の無い悲鳴を上げています。アウトー! 小林さんまで飲んでいたビールを吹き出し咽ています。うちの使い魔が本当にすみません。このままでは営業妨害になる、と私は椅子から立ち上がりました。

「くろべぇちゃん、部屋に行こうか」

「凛華ちゃん、酔っ払いを襲う気か」

「そんな訳ないでしょうが!」

 手を差し出せば大人しく握ってくれたので、軽く引っ張れば苦も無くついて来てくれます。抵抗されないことにホッとしながら、私は彼の腰に手を回して支えつつ自分の部屋へと向かいます。思ったよりはしっかりとした足取りで良かったです。

 部屋にはまだ山田君は戻ってきていません。高橋さんと夜通し飲み明かすって言っていたけど本当だったのか。今日はこのまま寝てしまおうと、部屋の明かりも点けずに二人でベッドにダイブします。ってか、くろべぇちゃんはまだ猫に戻らない気なのでしょうか。

「ねぇ、今日はどうしたの? らしく無いじゃん」

 暖かい両腕にすがるように抱き着かれて、さすがに心配になってきます。えーっと、慰める時ってどうすればいいんでしょう。花でも出せばいいのでしょうか。あわあわしていると、ポツリと消えそうな声で彼が呟きました。

「怖かったんです」

「え? あー、確かにお化けとか出たもんね。でも、皆いい子だったよ」

 謎が解けたと喜んでポンっと手を打てば、違うとばかりに彼が首を振ります。

「貴方が死ぬかもしれないと思って怖かった。だから、存在を確かめたくて触れたかったけど、酒でも飲んで理性を失くさないと甘えられない」

 は、え、それって。何かごめんと土下座でもしようかと思ったところで穏やかな寝息が聞こえてきました。おおう、ここで寝てしまわれたか。

 月光が優しく部屋を照らし出し、氷細工のように繊細な美貌が灯りを付けなくても見える。

 月の光は人を狂わせる作用があります。この時の私も月の魔力に当てられてしまったのだと思いたい。

 痛いほどの鼓動を刻む自分の心臓の音を聞きながら、ボタンを外してシャツを肌蹴だせて現れた雪の様な白い肌に噛みついて跡を残します。そっと、咲いた赤い花を指でなぞり私は小さく笑います。あぁ、この美しい獣は、もう私のモノなんですね。

「私はここにいるよ。君が望む限り」

 月だけが私の罪を見ています。彼の治癒力なら朝を待たずにこの花は消えてしまうでしょう。でも、それでも。目の前の光景があまりにも綺麗で、私だけは今この瞬間を覚えていたいと思いました。







ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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