彼女はピアノの音とともに
美しく澄んだピアノの音が優雅に舞う。
彼女が鍵盤を押すたびに、音が飛び出して空気を震わせ、私の耳に、内側に染み込んでくる。
私は今、とても充実していた。
そして、美しい旋律は終わりを迎える。
楽しい時間ほど瞬く間に過ぎていってしまう。
「とても綺麗だった......、本当に、......本当に」
そんな時間を作ってくれた彼女に盛大な拍手を送る。
照れたように笑う姿は、窓から射し込む夕焼けと相まって可愛らしい。
「それは私のこと? それともピアノの音?」
「ふふふ」
立ち上がり、指でピアノをなぞりながら彼女にゆっくり近寄る。
「私、心配だわ」
「なにが、心配なんだい?」
「あなたのことよ」
彼女の麗しい瞳が私を見つめる。その目は潤んでいた。
「私がいなくなっても、一人で大丈夫なのか不安で......」
そう言って目を伏せ、鍵盤を見つめる。
彼女は、私を置いていくのを気に病んでいるのだろう。どこか悲しみを感じる彼女の姿や表情でさえ、愛おしく思える。
隣に座り、膝に置かれている彼女の白く細い右手に手を添える。
少しでも多く、私の気持ちが伝わるように。
「私は、大丈夫だよ。心配しなくても、大丈夫」
顔を上げ私の目を見つめる彼女に微笑み、鍵盤に指を乗せる。そして、弾き始める。
奏でるのは、思い出の曲。
出会いの記憶。
「懐かしいわね......」
「ああ、これを君が音楽室で弾いていたところに、私が来たんだ」
懐かしき夕暮れの音楽室。
楽しそうにピアノを弾く彼女を見て運命を感じた。
「あの時は本当にびっくりしたわ。だって、あなたの制服、ボロボロだったんですもの」
「ふふふ、あんまり言わないでくれ。恥ずかしいじゃないか」
「ふふふ、ごめんなさい。......でも、あの日、あなたに出会えて本当に良かったって、そう思うわ......」
彼女の右手に添えていた左手が、ぎゅっと包まれる。
その確かな暖かみと、彼女により添えている今に感動して、視界が滲む。
どうにも、歳をとるごとに涙腺が緩んでしまう。
「もう、そんな顔をしないで。本当に大丈夫かしら?」
「ああ、ごめんよ。ちょっと、きちゃってね、大丈夫、大丈夫」
演奏をやめ、目端の雫をぬぐいながら彼女に向き直る。安心させるために、しっかりと顔を見つめ、目を合わせた。
やはり、綺麗だ。
「私は大丈夫、娘も一緒だしね。それに、私も後から君のところに行くのだから、長い間離れるわけじゃない」
「......本当に?」
彼女は頰を朱に染め、上目遣いで見つめてくる。
そんな可愛らしい顔をされると、恥ずかしくて、照れくさくて、愛おしくなってしまう。
そのあふれでる愛を示すため、優しく強く彼女を抱きしめる。
「......ばか。こうすればいいと思って」
そう言いながらも、彼女は私の背中に手を回す。
ぬくもりを、愛しい人を、心から抱きしめる。
きっと、言葉にするよりも深く伝わると、そう信じて。
「待ってるからね......、あなた」
「ああ、待っていてくれ......」
扉の開く音がした。
閉じていた目をあける。
「あ、ここにいたの」
入ってきたのは娘だった。
私と彼女の宝物。
「そろそろ病院に行く時間だから、一緒に行きましょう」
「ああ、もうそんな時間だったか」
立ち上がり、娘がいる扉にゆっくり歩いていく。
老人と呼べる歳なので、腰が重たい。
「なにしてたの?」
「お母さんと話してたんだ」
私の言葉を聞いて、娘は沈痛な表情を浮かべる。
「でも、母さんはもう......」
娘はそれ以上言いたくないようで、口を噤んでしまった。
振り返って部屋を見渡す。
埃かぶったピアノのだけが置いてあった。
「分かっているよ。だから、約束をしていたんだ」
そして、扉を閉める。
心配することはない。
私の心に、彼女はいるのだから。