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ふれ合っていた五指は離れ、永久に交わることのなき方向を別々に指した。
拳は掌へと変わり、主のもとへと引き寄せられる。すると、カウンター上では薄明や黄昏を彷彿とさせる風景が──煌々と輝く黄金色が姿を現す。
「……何の金だ?」
「俺は酒場に来た……客として。であるならば、酒だ」
あまりにも現実離れした――いや、むしろ現実過ぎる言葉に、場の空気は弛緩した。
とはいえ、マスターは依然として警戒心を保ち、油断を僅かにも見せなかった。
「では、なにを」
「……そこの白いの」
「一杯?」
「一本だ!」
彼の大声は、放たれていた殺意と直結していた。
つまるところ、彼は緊張していたのだ。一度敗れたという経験によって、ありもしない恐怖の幻影に取り憑かれているのだ。
その恐怖を人は、緊張という。
先日の失態を目の当たりにした為、マスターはなかなかに解せないといった表情で、置かれていたワインボトルを彼の前に置いた。
「――それと、後ろにあるオレンジジュース。ライムソーダとガラナのボトルもこっちに寄こせ。グラスもできるだけ用意しろ」
「へ、へい」
わけの分からない注文方法とはいえ、一応は客であると認識したらしく、マスターは平時の態度に戻った。
カウンターを大きく埋め尽くし、隣の客――今は居ない上、おそらく来ないだろうとは思われるが――の迷惑になりそうな規模で飲料を並べた。
「(薄めるとあの女は言った……あの時は不用意に煽りを受けたが、次はそうはいかない。俺が戦える境界線を探る)」
彼の発想、着眼点はとても残念な場所だった。
いくら望み薄とはいえ、盗賊に対しての調べを行うという本題を完全に投げ捨て、挙句に酒飲みを習得するにしても見当違いな方向に行っていた。
ティアが用兵術を不得意としていたように、彼はこちらの――一般的な教養の部分が著しく欠けていた。
ひどく滑稽というのは簡単だが、これはある種の必然である。むしろ、彼を含めた《選ばれし三柱》の場合、その力によって気付きが遅れる。
ただ戦い、勝利をもたらすという生き方をしていけば、人間兵器としての力だけを有していれば良い。人間としての生き方を模索しようとした瞬間、その欠如は致命的になっていく。
「(ガラナは……クソッ、どれだけ薄めても癖が強すぎるッ!)」
一つのグラスにたっぷりと注がれたオリジナル配合の酒――というよりも、子供のジュース遊びと同じである――を一瞥し、彼は別の組み合わせを試し始めた。
「(柑橘系は相性がいいのか? 少し薄めるだけでも飲める――いや、これは濃すぎたか! クソッ! こんな当てずっぽうの戦いを繰り返せば、無用のグラスを連ねることになる)」
外は魔物、国々は疑心暗鬼で分裂しているというのに、彼はずいぶんと呑気なことをやっていた。
「(いや……? 匂い、これだッ! 嗅いだ段階であの臭いがしなければ、いける)」
何かを見い出したらしく、彼はずいぶんと薄めた酒を飲み干すと、失敗作のガラナグラスを――注文したボトルを全て残して席を立った。
「なるほど、勝手は知れた」
「は、はあ……」
満足げな表情を浮かべたガムラオルスはそう言い残すと、店を立ち去った。
マスターはというと、残された飲料をどうするか迷い、とりあえずと言わんばかりにボトルキープとした。
ただ呑みに来ていた盗賊はというと、客観的な愉快さを感じることもできず、ただ唖然としていた。




