9v
――火の国、フレイア付近の砂漠にて……。
「時間切れか……十分持ったな」
スタンレーはそう言うと、辺りを見回した。
一度は作られた血の海は砂漠に染みこみ、その痕跡も時追う毎に薄れていく。
既に命が終わった屍とは別に、彼の傍には人間が立っていた。
仮面という相違点こそあれど、それは間違いなくトリーチ本人だった。精気はなく、表情も窺えないが、服装から容姿に至るまで全てが合致している。
この屍人形は、通信を終えるその瞬間まで本人として話し、最後の役目を終えた。
《幻影召還》、それは彼が倒した人間を対象とし、その人物を模した屍人形を召喚する《秘術》だ。
だが、この術の真価はたった一回だけといっても過言ではない。名にもある召還が成立するのは、一回目――それも死後直後の短い間だけ。
この世を去った魂を、再びこの世界に召還す。
《秘術》の開発者は歴戦の戦士を完全蘇生させ、自身の兵としようとした。しかし、それはあまりにも度を越した願いであった。
その当人の使ったものでは、一度としても蘇生は成立せず、模倣物が召喚されるだけに留まっていた。
これはスタンレーという使い手であっても例外ではなく、彼ほどの逸材であってもなお、凄まじい限定条件の末の蘇生が限度だった。
「さて、この体も……もう、限界だな」
それまでの毅然とした態度とは一変し、彼は片膝をつき、息を荒げた。
表面上の傷こそ回復傾向にあるが、内部は依然としてひどい有様であり、長時間のやせ我慢は精神――そして肉体に大きな負担をかけていた。
「戻った直後、急いでこの場を離れろ。誰かに見られては厄介だ」
そう言い終えると同時に、彼の体は霧に包まれるように、次第にその姿を朧げにしていった。
スタンレーの肉体が完全に消滅した後、入れ替わるようにしてスケープがその場に現れた。というよりも、纏っていた何かを脱ぎ捨てた、という風な現れ方だ。
「にげ……なきゃ」
戻りこそしたが、彼女の体は凄まじい疲労感を覚えており、肩の負傷は主のそれと同様の状態であった。
もちろん、同様とは治療を行われた後ということ。応急処置を施した後ということ。
彼の様子を見ても分かるが、この状態であっても痛みは何のこともなく続行している。
スケープは俯きながら、その場を離れようとした――が、すぐに《屍魂布》が落ちていることに気付き、拾い上げてから歩み始めた。
どこに行くという展望もなく、自身の肉体を治す術さえ知らない。それであっても、彼女は歩みを続けた。
良くも悪くも、無知であるが為に彼女は命令に忠実だった。逃げろと言われれば、とりあえずどこかに逃げる。重傷であろうとも、疲弊しきっていても。
「どこかに……誰かに見つからない場所に……」
そう呟いていた彼女だが、言霊は対極の現象を引き寄せてしまった。
「おい、大丈夫かい?」
「こんな時期に一人で出歩くなんて、不用心じゃねえのか?」
彼女の意識では、歩き始めてすぐの出来事だった。だが、周囲は闇に包まれており、かなりの時間が経過している。
首都から離れたスケープは、最悪の偶然を引き当ててしまった。つまりは、人との遭遇だ。
表情を失い始めた彼女は、地に向けていた視線を声の方に向けると、黙って状況を確認し始めた。
荷馬車が一台、護衛と思われる冒険者が三名、商人が一人という編成。おそらく、首都の盛況を知り、稼ぎ時だと察知した弱小商人だろう。
「(誰かに……見られては、厄介)」
スタンレーが最後に告げた言葉を思い出し、彼女は目を見開いた。
次の瞬間、心配そうにしていた男達は消えた。正しくは、スケープに――《屍魂布》に取り込まれた。
マントのように羽織っていた布は、人間を喰ったと同時に赤く鳴動し、咀嚼のように脈動した表面は次第に元の色合いに戻っていった。
「これで逃げ切れ、ますね」
人を喰ったことによる影響か、スケープの体力は完全に回復していた。
体力、疲労感だけではない。その負傷さえ、完全な形で修復されていたのだ。
しかし、彼女は重要な事実に気付いていなかった。
時の移ろいから見て分かる通り、スケープは現場から遠く離れた場所にまで来ていたのだ。
そうなってしまえば、見られたとしても何ら問題ない。にもかかわらず、彼女はそれを察することができなかった。
言ってしまえば、商人の一行は無駄に殺されてしまったのだ。




