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「(死を避けたのは失敗だったか。あそこは一度でも直撃しておくべきだった)」
第三の要因。それは、彼が予知した未来の全てにおいて、きっちり回避していたことにあった。
躱したと確信した時点で、すぐさま解除していたことが原因だった。
この奇襲、それ自体はもとより確定していたことだった。当たり前だ、未来を変化させる為には、それを知覚した人間が動く必要があるからだ。
だが、彼は死を避けた。一度目の予知の時点で軌道を計り、ただの一度も命中することなく躱しきったのだから。
ただの雑魚一人を相手に、わざわざ死の苦痛を味わう必要がない。彼はそんな、当たり前の決定を下したのだ。
麻痺しているようにも見えるが、彼は死を軽んじてはいない。意図的に死を受容したような行動は、実のところ数える限りしかない。
どんな形であれ、一回は一回。死がもたらす痛みも、当然ながら現実のそれと等しい。
《天光の二人》、キリク、そして魔物、これらは仮初めの死を容認しない限り、実際の死が確定していた場面だ。もちろん、そんな状況は限定される。
当たり前、当然の決定こそが運命を変化させ――いや、運命の変動を止めたのだ。
「(あいつ……今、俺の心を読まなかったのか? あれは、俺が落ちる前に確信していた着弾地点だ)」
気付いたトリーチは、もはや思考を挟まなかった。
この一瞬、たった一回だけ生まれた読みの空振りこそが、自身の刃が刺さる唯一のタイミングだと悟ったのだ。
轟音が鳴り響き、再び力場の向きが変化した。一撃必殺の射程ではないが、十分にダメージを与えうる高さ。
「(出力が明らかに増している――なるほど、これが《超常能力》か)」
直上から突進を仕掛ける男と、緑光の尾を引きながら突っ込んできた男の姿が、視界の中で重なった。
感情の昂ぶりがもたらす変化は、この世界で起きる全ての現象に存在している。
術であれば威力、射程の拡張が発生する。色彩が明るく、または暗くなるというのは、過去に幾多の例があったことだろう。
だが、ガムラオルスの《翼》やトリーチの《超常能力》はその比ではない。
まるで能力の次元が変化――下級術が枠組みを越え、中級術の法則下に入るような、摂理への反逆が発生する。
スタンレーは笑みを消し、迫り来る敵を見やった。
「フッ、面白い――その力、狩らせてもらう」
「終わりだ!」
互いの言葉は交わされなかったらしく、両者は発声の直後に衝突した。
砂漠の砂が舞い上がり、周囲には砂煙のような幕が生み出された。
その中にあっても、トリーチの意識は存在していた。攻撃が直撃したという手応えもあり、これで勝負が決まった――とは言わないまでも、致命傷を与えたと確信した。
宙を舞っていた薄茶色の粒子が地に落ちた後、彼の想定は現実として確定された。
スタンレーは回避が間に合わず、深い傷を負わされていた。咄嗟に避けたことで頭部へのダメージは免れたものの、左肩の傷口からは多量の血が吹き出している。
「(左腕は使えないな)」
関節が外れただけならばともかく、彼の場合は完全に骨がへし折れている。それによって皮膚が突き破られている時点で、これが並大抵の負傷ではないことは明らかだろう。
むしろ、そのような状態であっても気を乱していないというのは、逆に奇妙としか言い様がなかった。
「(あれだけの攻撃を与えても、何でもないってことかよ)」
スタンレーの狙いはここだった。常人であれば悶えるような場面にあっても、彼は平静を装っていた。
それによって、攻め時を――流れを押し殺した。この場で追撃を行われようものなら、彼とて絶対に防ぎきれるとは限らないのだ。
無論、当人が全く痛みを感じていない、ということもない。凄まじい激痛が全身を走り、今にも崩れ落ちそうになっていた。
しかし、幸いなことに彼は多種多様な属性を用いることができる特異体質の持ち主だった。
傷口を光属性と水属性によって修復させつつ、耐えがたい痛みも微弱な闇属性によって軽減させている。
言ってしまえばやせ我慢。長時間の戦闘になれば、彼は勝手に死亡する――それほどの重体だ。だが、誰もそのようには感じない。
もしトリーチが魔力を察知できれば、その明確な減退具合で察することもできたかもしれないが、それができないことは織り込み済みだろう。
「手傷こそ負ったが、必要経費だ」
「なにっ……」
「幸い、お前の意思も僅かな間は維持できる」
「……?」
「冥土の土産だ、教えてやろう。あの男は――アリトは、おれの身分を知りながらに、利用している。この火の国を乗っ取る為にな」
唐突に告げられた事実に、トリーチは言葉を失った。
もちろん、それは絶望や失望によるものではない。あまりにもあり得ないことに、思考が止まったのだ。
「な、なにを……そんなわけがない! アリト様は――」
「あの男はコアル姫を目当てとしている、だろう? だからだ」
この一言。まるで惚気話のような振りでしかないが、《《盟友》のメンバーからすれば、何よりも真実味を強調させるものだった。
「あの男の行動は全て、姫を万全の体制で受け入れる為のもの。だからこそ、厄介者である盗賊ギルドでさえ受け入れた――挙句に、この戦争の黒幕とさえ、自分の意思で手を結んだほどだ」
「黒幕……闇の国と?」
「そこは重要なところではない。重要なのは、あいつが手段を選んでいないということだ。おそらく、火の巫女が来ればそれさえも利用するだろう」
あり得ない、そう断じるのは簡単だった。
しかし、それをする為には愚でなければならない。無知でなければならない。
トリーチは救援としてカーディナルを訪れた際、知ってしまったのだ。何も知らないと言い張ることができなくなってしまった。
あの場には、明らかに人間離れした傭兵が存在していた。それが黒幕の手のものとすれば、辻褄が合ってしまうのだ。
なにより、アリトがコアルを想う気持ちが本物であり、その為にならばどんなことでもする――という部分が符合していたのだ。
「奴の狙いからすれば、火の巫女が亡命するのは望ましいだろう。しかし、おれからすると都合が悪い。だからこそ、防ぐ必要がある」
「……」
「さて、どうする? 主に追従すれば、人類側が窮地に陥るかもしれない。だが、見知らぬおれに従ったところで、それが正解とは限らない」
迷いなど、生まれるはずもない。一方は善人を体現したような、信望する主。
対して、眼前の男は身分さえも知らず、自身に襲いかかってきた男だ。
この発言をただの妄言と切り捨てられれば、世の中はどれだけ簡単だろうか。
彼の中にある複数の情報が、簡単で単純で心地よい選択を選ぶことを拒絶しているのだ。
「(ミネアがフレイアを抜ければ、間違いなくカーディナルが火の国を支配する。主が長になれば、この閉塞した状況は改善されるはずだ――だが、そんなのはミネアの言ってた絵空事の話……現実味なんてない)」
皮肉なことに、彼はついさっき否定したばかりの、ミネアの意見に身を投げたくなっていた。
本当に成立するのであれば、これほどに望ましいものはない。しかし、当然なことに、一度は否定した非現実を肯定し直すというのは、簡単にできることではない。
フレイアに対する思い入れはなくとも、長い年月、この国を支配し続けてきた絶対王者を追い落とせるはずがない――そういった現実観が彼には存在していたのだ。
「……何を迷う必要がある。お前はおれの意見に乗らざるを得ないと思うのだがな」
「馬鹿言え!」
「言っただろう、おれとアリトは通じている。つまり、お前が火の巫女を通した時点で、おれの様な奴がいる場所に送り込むことになる。火の国の切り札を」
その一言が、全てを決定させた。
事実であるかどうかはともかくとし、スタンレー――延いては盗賊ギルドが混ざり込んでいる以上、その場所は魑魅魍魎の集う修羅の巷だ。
この場で撃破に成立したところで、その本質は変わらない。
「さて、決着はついたな」
「……俺は、アリト様を信じる」
スタンレーは一瞬、驚いたような顔をした。しかし、すぐに笑みを浮かべ、ベルトに付けられたホルダーに手をかけた。
「利口であれば、死なずに済んだものを」
「お前はもう瀕死寸前だ! ここで倒せば、全てが解け――」
「陽よ、氷を輝かせよ《天舞の細氷》」
「なにッ――」
《魔導式》はどこにも存在しなかった。その上、魔力の気配さえ存在していなかった。
だが、詠唱は成立し、《秘術》が発動した。砂漠で起こるはずのない、吹雪――細氷による、千の斬撃。
「この術は……まさか」
トリーチは咄嗟に力場を形成し、自身の身を守ろうとするが、凄まじい斬撃がそれを引き剥がしていく。
「《秘匿の司書》、これが最後の証明だ。おれは奴に手を貸し、戦った」
その言葉を最後に、赤い力場は細氷の舞によって埋め尽くされ、打ち砕かれ――彼の身を等しく、微塵切りにした。
 




