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返す言葉もなく、ティアは黙り込んでしまった。
「賢明な判断を」
彼の口調は、族長補佐としてのものに変わった。
そんな彼の顔を見ることが怖かったのか、ティアは黄金の残像さえ失われた夕闇を見つめ――瞳の中にただ映していた。
「ガムラン、私ね」
相槌がないことに不安を覚えるが、彼女は続ける。
「私ね、ガムランと一緒にいられるだけでも嬉しいんだよ。今日みたいに一緒に戦って、一緒に頑張って――そうしているだけでも、もう一生分生きたってくらい、幸せなんだよ」
「たかだか十数年生きたくらいで、何を言う」
「たかだか……うん、そうだよね」
そのたかだが十数年しか生きていないのは、彼も同じだった。
しかし、そのたかだがという年数は、彼女にとって正真正銘の一生だった。
「なにが言いたい」
「自分でも分からないんだよ……おかしいよね」
「満足したから、死んでも構わないとでも言いたいのか?」
ティアはぞっとした。
それは図星を突かれたからでもあり、また見当違いなことを言われたような、奇妙な感触に襲われたからだろう。
客観的な視点からすれば、彼女の有り様は捨て身でしかない。自分の一生に充足し、その命に――最後の瞬間に意味を持たせようとしているようにしかみえなかった。
ただ、彼女は捨て身にはなっておらず、当人の考える限りでは今を生きようとしていた。
主観と客観に、大きな相違が生じていた。そして、事実として彼女は前者の思考に、無自覚ながらも囚われていた。
ガムラオルスからすれば、そんな彼女が、何よりも許せなかった。
「俺は里を抜ける」
「……なんで」
「俺はティアを支えるつもりで、ここに残っていた。今までそうする為に人事を尽くしてきたつもりだ――だが、当人に生きる気がないというのであれば、これほど馬鹿らしく、滑稽なことはないだろ」
ティアは彼を止めるべく、声を出そうとした。しかし、それはでなかった。
この状況――彼が離れゆくという状況、これを打開する根本的な方法が彼女の頭にはなかったのだ。
急な宣告で思考が混乱、硬直しているというのもあるが、それにしても止める方法が浮かんでいないのが現実だった。
慌ただしく動いていた頭は次第に凝固していき、その遅鈍な働きは静止へと至った。
思考を停止させた彼女は、わけの分からない方向に進む――それこそ、奇行であるかのように、別の手を取ろうとした。
「……ガムラン、族長の命令として言うよ。お願い、残って」
「族長……ふっ、族長か」
肩で笑いながらも、彼の顔は乾いた笑いだけを称えていた。
「なにかおかしい?」
「……いや、それでいいんじゃないか?」
その返答に不気味さを覚えながらも「なら、それでお願い」と、族長は答えた。
「族長、お前は忘れていないか? 俺は里を抜けると言ったんだ。一族の者ですらない俺が、山籠もりの長に従う道理が、どこにあるという」
この重要な局面で、彼女は大きな過ちを犯した。
ティアは良くも悪くも単純馬鹿である。故に、彼女が防衛の対策を練ったことはない。
それであっても求心力が低下していないのは、ひとえに彼女が打算を抜きにした、カリスマや人柄を持っていたからに他ならない。
にもかかわらず、彼女はここで浅知恵を――理詰めという、不得意な土俵に乗ってしまったのだ。
その土俵際という境界を越えた時点で、ティアの優位性は空に溶け、虚無へと失墜した。
去って行く彼の背中を、彼女はただ見つめることしかできなかった。
以前のように、そこで待ったをかけることができなかった。
周囲を暖かく照らしていた橙は、彼の手に握られ、その持ち主が去ると同時に周囲の色を奪い去った。
世界は再び闇夜の深い藍色に包まれ、幸運の兆しは宵闇の中に消えた。




