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「(あの魔物、私を見ていないの……?)」
渡り鳥は地を蹴り、蠅の軌道に割り込んだ。その超大な図体から繰り出される体当たりは、それ自体が上級術をも上回る。
攻撃さえ必要のない、物理的な強さ。能力による強かさであれば、ティアを御することは難しい。
ただ、こうした純粋な戦闘型というのは、彼女にとって最大の天敵であった。
かつて、第一部隊の部隊長であるカッサードに敗れたように、彼女は自身の土俵を踏み荒らされた場合、非常に打たれ弱くなるのだ。
それは当然である。彼女は近接格闘型としては圧倒的な強者であり、そんな彼女に相対する者達は皆一様に、搦め手で挑んでくる
だからこそ、自身の庭である接近戦であっても、その戦闘経験の乏しさが弱点となる。
対象が旋回する様子がないと見るや否や、展開されていた《魔導式》を起動し、術を発動させた。
「《風ノ九十七番・神風》」
ティアを中心とし、周囲には強烈な風が吹き始めた。
その風は属性色である緑色を帯びており、大気のそれとは明らかに異なったものだった。
次第に強まっていく気流は、彼女の背を押すように――魔物の進行を阻害するように吹き荒ぶ。
手拍子で防御術を発動してしまいそうな場面だが、やはり彼女は戦闘をよく理解していた。
あれほどの体格を持つ相手であれば、多少の防御術ではものの数に含まれない。だからこそ、防ぎきることは諦め、敵の機動力、破壊力をそぎ落とすことに専念したのだ。
追い風を背負ったティア、向かい風に煽られる魔物とでは、地の利において大きな差が生まれる。
豹の四肢を有した蠅は高速移動を主とするが、この風ではその能力を発揮することは難しい。
ただ一回の術で、相手の翼を引きちぎったに等しい――値千金の一手だった。
――そう、翼を引きちぎったに等しい手だった。
攻撃性を持たないとはいえ、この術がもたらす風圧は驚異的だ。
それこそ、風ノ八十四番・山嵐のものをも遙かに上回る出力である。その上、この術を発動させているのは属性の最高峰、《風の星》である。
さしもの藍眼であっても、これには耐えきれないと羽根による飛行を中断した。
「さっきまでの森と違って、ここなら風を防ぐことはできないからねっ!」
族長の活躍に一族の者達は歓声をあげ、一層に奮起した。
事実、ティアでさえこれには勝利を確信した――が、しかし……。
無理矢理な混ぜ物、継ぎ接ぎ人形のような姿であると思われていた魔物は、それまで役を成していなかった獣の足で地に降り立った。
強靱、かつ本来のものよりも五割増しの本数であるからして、地に張り付く力は相当のものだった。
最初こそはすぐに吹き飛ばされると見ていた者達も、そのしぶとさに唾を呑み始めた。
そして、人々の恐怖という絶望側の期待に応じるように――蠅は三対の足で強風の中を駆け、疾走し始めた。
大地を踏み荒らし、地鳴らしを響かせながら、醜悪な巨体が風を裂いて少女へと迫る。
ティアは天性の直感でこれを回避しようとするが、攻勢用に張った術が枷となり、破壊の渦中へとその身を押し出す。
「(避けられない……けど、受け流せばこの攻撃は防げるかも)」
防げる、というのは彼女の体が持つということだ。
直撃した場合、どのような方法であっても彼女は戦闘不能に陥ることだろう。
だが、ティアが想定した受け流しという方法――魔物の体に自ら当たりに行き、衝撃を逃がすように滑っていけば、手傷だけで済むことだろう。
「魔物が来るぞ! 避けろ避けろ!」
「駄目だ! 間に合わない!」
「巫女様、お願いします!」
「(……だめっ、受け流しじゃ後ろのみんなが間に合わないよ……私がここで食い止めなきゃ)」
ガムラオルスの危惧が現実のものとなった。
この場、彼女が自分の生存を目的とすれば、それを達成することは決して難しいものではなかった。
しかし、他者から助けを乞われたら最後、彼女は自身が危機に陥ると分かっていても裏切ることはできない。それこそがティアの絶対的な弱点だった。
この場で防ぎきる方法は、二つ存在していた。ただし、一つは禁忌に触れる上、彼女自身が理解していない。
つまり、唯一となった策を取る他にない。自身の体を焼べ、最大出力の風属性で防ぎきるという手段。
まさに眼前、という距離にまで魔物が迫った時、彼女は目を閉じた。 凝縮された時間の中、《風の星》の命令、願いに呼応するように、周囲一帯の風属性のマナが収束し……。
「あ、あれは!?」
「族長の奇跡か!」
一族の者達は口々に感嘆の声を上げ、その光を神の祝福かのように崇め称えた。
「(あ……れ?)」
その光の呼び水と思われたティアだが、目の前の現象に誰よりも驚き、唖然としていた。
「無謀な真似はするな、と忠告したはずだ」




