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戦闘開始の号砲となったのは、アカリの放った二百番台──火ノ二百一番・劫火灼葬だ──の術だった。
凄まじい火炎の衝突により、魔物は先制攻撃を遮られた──その反対に、アリト達は火の海をかき分けながら、敵の直下に接近していく。
蟻を思わせる姿をした魔物はその肉体と比べるとか細く、それであってヤマアラシの針毛の如く鱗に覆われた足を無防備に晒していた。
一本でも叩き斬れば行動を著しく阻害できる──と、事前に調べていた為に、それぞれが足を選び、攻撃を仕掛けていく。
か細いとはいえ、その足の太さは成木のそれに等しかった。さらにいえば、範囲が狭い為に全員で囲って攻撃ともいかない。
ある程度の間隔を取り、全員がすぐさま動けるという人数で各脚に攻撃を放っているのだ。無論、あぶれたものは後続となるべく、大蟻の射程外で交代の機会を窺っている。
「……はーあ、こりゃすごいもんで」
ずいぶんと余裕そうな発言だが、彼女の仕事はまだ終わっていないのだ。
それであっても、打ち合わせすらない素人集団がここまで統率の取れた行動をしているというのは、軍属のアカリからみても珍しい風景だったのだろう。
のんきに見物をしていると、初撃によって発火していた藍眼はこれを自力で払い、眼下で好き勝手な戦いをしていた愚か者達を睥睨した。
「いま」
アカリは短く、それであって正確な発音で呟く。その手には、さきほどの符が握られていた。
『全員後退ッ!』
返答ではなく、魔物の真下で発せられたであろう命令が彼女の耳には届いた。
声としては大きいが、それはただの大声にすぎない──にもかかわらず、カーディナル軍の面々は後退を開始した。
その光景は奇妙で、あべこべで、皮肉なものだった。
蟻型と対峙しているというのに、あちこちに逃げていく兵達の方がよっぽどアリらしかったのだから。
「これじゃ、どっちがムシケラか知れたもんじゃないねぇ。人がムシのようだよって──《火ノ百九十八番・降硫炎》」
彼女の役割は魔物の注意を引くことであり、同時に劇的なダメージを与えることだった。
だからこそ、全体の場所が見ることができ、かつ回避動作を必要としない位置で停止していたのだ。
天空に噴煙が発生したかと思うと、無数の発火物が凄まじい速度で放たれ、魔物のもとへと降り注いでいく。
天災の如く発火弾は魔物の周囲一帯に放たれ、砂漠でなければ絶望的な被害を発生させていただろう、という威力で攻撃を続行する。
もしもこの部隊が本当の素人部隊であれば、このような術は使用できなかっただろう。
だが、彼女は場を見極めていたからこそ、大将が全員を射程外に逃せられると確信していたのだ。そして、彼も──彼らもまたそれに応えた。
一点特化の初撃の方が威力は高い。順列が近い上級術とはいえ、百番台と二百番台では絶対的な差が生まれるのだ。
それでも、ここまで危険な賭けを軍隊規模の相手に行ったのには意味がある。
凄まじい炎雨の後、術によって発生していた発火物は次々と消えていく──魔物の体を焼き焦がす炎や、体に刻まれた傷をその場に残して。
熱の低下を察知したのか『可能か?』という短い言葉でアリトは問う。
「はいよ」
今度の掛け声は実際の耳で聞き取った。急いていた先ほどとは違い、今度は接続を遮断する余裕があったのだろう。
主の号令が伝播すると、逃げまどうムシケラでしかなかった者達が、今度は大海の波を思わせる動きで手傷を負った化け物へと迫っていく。
これはある意味、状況の大きな変化を表していた。
それぞれに攻撃を開始していき、さきほどと同じような風景に戻っていく──戻っている、ように思われた。
だが、これは繰り返しではない。
一度目の総攻撃の際、敵に与えられた負荷は微々たるものにすぎなかったのだ。
無意味な攻撃、徒労の如き蛮行。それこそ、恐れを知らぬムシケラにも等しい戦い方だった。
ただし、この二度目の攻撃に際して、魔物は明確な危機感を抱いているかのような様子を見せた。当人だからこそ、先の安全が崩されたことを理解していたのだろう。
──それもそのはずだ。華奢な脚を守っていた針の如く鱗、その大部分が剥がれ落ちていたのだから。




