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──同日、夜の山道にて……。
「ガムラン!」
背後から聞こえる声に気付き、ガムラオルスは振り返った。
「なんだ」
「えっと……散歩?」
「そんなところだ」
顔に笑みはない。冗談のニオイは微塵もなく、愉快に散策しているようにも見えなかった。
このままであれば、ガムラオルスは里を抜ける。
彼女はそれを確信していた。だが、それを言葉にし、止めることはできなかった。
その一言が深い海に沈んだ可能性を手繰り寄せ、現実に変えてしまうのではないか、という恐れを感じていたのだ。
渡り鳥は強い少女だった。しかし、彼女は伝説の英雄や神などではない。人間としての心を持ち、人間の弱さを抱えていた。
できることであれば、想い人との別れなどという展開を考えたくもないのだ。人が常に死から目を背け続け、酒や一時の快楽で現実の苦痛から逃避するように。
彼は言葉を詰まらせているティアから視線を逸らし、黒洞々たる闇に足先を向けた。
「(だめ……行かないで)」
必死の抵抗のように手を伸ばすが、彼の歩みに合わせて二人の距離は開いていく。
「(だめ……駄目っ! ここで止められなかったら、もうガムランに会えなくなっちゃう! そんなの嫌っ! 絶対に嫌っ!)」
ガムラオルスの視界は──全神経は深い闇に向いていた。背後に立つ新任の長など、眼中になかった。
だが……。
風が吹いたかと思うと、彼の視界は大きく揺れ、背中に凄まじい衝撃が走った。
「ガムランの馬鹿ぁあああああああああああ」
叫びと共に、彼の体は宙を舞う。背中を掴まれ、そのまま引っ張られたのだ。
咄嗟に《翼》を発生させようとするが、意識するよりも先に推力が発生する。
「なッ……!?」
空噴かしを起こしたように、《風の太陽》はつんのめる。普段であれば、脚力で転倒を防ぐが、今は靴底が接地していない。
勢いよく叩きつけられ、彼の全身は地面にめり込んだ。
「くっ……なんの、つもり……だッ!」
《風の星》が放った全力の投げ技なだけはあり、さすがの彼も冗談ではないダメージを負わされた。
しかし、怒りによって彼女の姿を捉えようとしたからこそ、彼はそれを認識した。
「……ティア」
今まさに殺人級の攻撃を放ったばかりだというのに、少女の顔は涙に濡れており、英雄などと囃し立てられていたとは思えない顔で泣いていたのだ。
「ごめん……ごめんねガムランっ……でも、でも私、どうしたらいいのか分からなくて……だから、だから!」
自分を退け、長となった巫女がただの少女にすぎないのだと、彼は悟った。
両者の年齢差は|ささやかなものでしかないが、今の彼女は実年齢を感じさせない幼さを持っていた。
だからこそだろうか。彼はほんの少し前まで囚われていた憎悪の感情を忘れ──いや、あまりの馬鹿らしさから競争心を失った。子供になにを言われようとも、本気で怒り出さないのと同じだ。
泣き出したその瞬間から、彼女は英雄の生まれ変わりなどではなく、か弱い一人の少女となったのだ。
「英雄サマがそんなツラをしていたら、全員の士気が下がる」
「でもっ……がむらん……」
「それが長となった者の責任だ。自ら選んだ以上、背負っていかなければならない定めだ」
ティアが泣きやまないと見ると、彼は観念したようにため息をついた。
「重いというなら、少しくらいは支えてやる。それくらいならば、英雄落伍者の俺にでもできる」
ガムラオルスの瞳には、いくつかの星が映り込んでいた。月光によって煌めく、大粒の涙。
彼の踵は、深い闇の方に向いていた。




