3F
目の前で起きた現象に対して、ディードは恐怖した。仲間を失うことでもなく、国が滅ぼされることでもない。
彼という一人の人間が感じ、本能の補助を受けながらも覚えた感情。
チッ、と舌打ちをしたと思われる音──顎の動きからして、間違いなくそうだろう──を出し、雷獣は片手を彼に向けた。
《魔導式》の存在しない状況にもかかわらず、彼は逃亡した。
「撤退……いや、水の国へと逃れる! 走れッ!」
「ディード! こんなところで逃げたとあったら……俺達はもう終わりだ!」
逃げて、逃げて、二度も逃げたバロックは必死になっている。彼もまた、本来ならば部隊長となるだけの素質と、身分があるのだ。
「我々に勝てる相手ではない! あの光輪をみなかったのか?」
「あれは失敗に終わった! まだ勝機は──」
「ならば戦うがいい! わたしは同胞をこれ以上殺したくない!」
逃亡する兵に追いつき、唯一敵に背を向けていない副官の横を通り過ぎながら、牧羊犬のように部下を追い立てる。
「臆病に取り憑かれたのか!? お前を信じた俺が馬鹿だった! ここで朽ちようとも、俺は──」
次の瞬間、バロックの胴体は弾け飛び、その断面は乾燥した黒色となった。
血の巡りが加速し、耳に聞こえるほどに鼓動が強く、激しくなっていく。
「逃亡しろ! 遅れた者は助けず、そのまま走れ!」
過半数が目の前の死に恐れ、残る二割程はディードが狙いを持ち、そのような命令を出しているのだと信じて続いた。
遅れている順番に銃撃や雷撃が当てられていき、果てていく。銃弾を身に受けた者は命を取り留め、助けを呼ぶように呻く。
「助けて……死にたくない」
「見捨てないでくれ!」
声が幾つか聞こえ、逃亡していた者達から憎悪や、義憤で踵を返していく者達が現れた。
「軍を持たなかった国の奴らに負けてたまるかっ……」
「あいつの仇だ……! 奴らを一人でも殺さなけりゃ怒りが収まらない!」
「やめろ! そんなことをしても犬死にだ!」
もはや制止は届かず、自ら的の大きさを増していくだけの行為に、情の一つもなく無情な鉛弾が放たれる。
誰に殺されたのかすらも分からず、刃を届かせることもなく、顔のない没個性の兵隊に命を奪われる。
耐え難い無力感に苛まれながら、失われていく血液やソウルを感じ──絶命した。絶命していった。
「部隊長、このままでは……」
ケールは蛇のような顔には似合わない、不安そうな表情を主に向けたまま、並んで駆けて問う。
「アレには勝てない。まだ魔物の相手をしている方がマシだ……! アレは人間のような思考を持ち、魔物のような力を振るう。あんな化け物に勝てるはずがない!」
「だから、逃げるのですか? 死が恐ろしくて」
「……そうだ。わたしは臆病だ。無能な指揮官だ」
失望の色を見せるケールだが、ディードは続ける。「わたし以外の犠牲を強いてしまった」
「えっ……それは──」
刹那、周囲には霧が発生した。色は藍色、マナグライドに満ちるものと同じだ。
彼は移動する最中にも準備を進め、この《魔技》を発動させたのだ。
命を奪われた同胞の亡骸を起点に、自身の導力をその全てと──その漏出ソウルと同調させ、繋ぎ合わせる。
死者を特定し、その者に流れるソウルの性質を知らなければ行えない大技。
ディードの脳裏では姿の変わったバロックの姿、死んだ振りをしたまま、追い打ちで殺された小狡賢いマウス。
述べきれない程の隊員の顔と名前、その者の在り方が蘇っていた。
「わたしは彼らを忘れない。彼らの死を無為にしたくはない。そして……これ以上、誰一人殺させはしない!」
逃亡を呼びかけられ、隊員達は感覚を頼りに──濃霧の際の移動法を理解しているだけに、誤差は少ない──水の国方面に向かう。
そんな中、ディードは彼らの様子を確認することもなく……確認することもできないままに、仲間を追った。
そこにあったのはバロックと共に、急ぎの伝令を送る為にと疲労を惜しまず行進を続けた者だった。
その近くで感覚を狂わされた鏡面の兵を発見し、手に構えた槍で心臓を突き刺す。
「(こんな真似はしたくなかった)」
この戦いは、彼にとって全てが失敗であり、全てが恥辱だった。
仲間を切り捨て、それを利用し、敵兵に不意打ちを仕掛ける。姑息で、卑劣な、彼の好む正々堂々の戦いとは相反するものだ。
転がる部下の顔を確認しながら進んでいく。みなくとも、そこに倒れている者のことは分かっていても。
ディードの用いた《魔技》は闇の国の王家に伝わる術だ。
軸となる術者が想像した世界を、死者から漏出していくソウルを用いて再現するというもの。
幻術でありながらも、それは実体を持つ。
無論、それを召喚、維持するだけの想像力が必要なのだが……これが常人のものでは不足する。
その風景、世界を知り、強く願わなければ発動すらしないのだ。死者の力を使うのも、これが原因となる。
「(連れて帰ってやりたかった。勝利を掲げ、あの場へと凱旋したかった──我らの、故郷に)」
消えるゆくエネルギーが思い浮かべる世界、それこそが常では不可能な構築の設計図となっていた。
本来ならば、核となる術者が意志や思考を歪め、強制的に自身と同じ波長に調律する。
ただ、彼はそうはせず、よく知った同胞の魂と同調しているのだ。一人でさえ困難だというのに、死者全員の調整を同時に行っている。
魂への敬意、仲間との絆、死者の尊厳保持の為だけに、不合理ながらも行った。
そうして変貌を遂げた藍色の世界を歩み行き、最後の地点となるバロックの死所に辿りついた時、彼は表情を変えた。




