12s
この場の誰一人として、彼を知らない。彼の過去を知らない。
一人の駄目娘が歩みだした第一歩。一人の王が、真の皇となった出来事。
あの戦い、善大王が《皇の力》を掌握したあの戦闘に、クオークは関わっていた──いや、逃れたのだ。
たった一人、留守を任された魔道二課の中で逃げ出した男。
黒き炎を操る黒龍、鈍色の瞳をした魔物。
記憶が幾度も逆流し、結界の内部で何度も嘔吐を繰り返し、中身がなくなるまで吐いてもそれはとなることもなかった。
目は充血し、涙が溢れ、吐瀉物の付着した口許からはよだれがたれている。
美形な青年とは相反した、だらしない姿。恐怖に戦き、屈服し、誇りさえも金繰り捨てた本質の一面。
ウルスはそんな若者の姿を見ながらも、継続的に炎の刃を振るい、ティアへと直撃する鱗粉を焼き払う。
その経過で流れ弾のような一撃を毒蛾に浴びせてはいたが、そのダメージはほんの一瞬にだけ残るものに過ぎない。
霧のような微細な粒子──攻撃性の鱗粉とは違うが、あの個体が撒いているものかもしれない──が血小板のように、傷口を覆い尽くしていくのだ。
ここまでの戦いを見て分かる通り、内部の損傷まで完全に修復していると見ていい。
「勝ち目があるとすれば、お前の精神介入次第か?」
恨めしげな顔をし──仮面で隠れても、目などから判断はできる──分かっているとばかりに、エルズは魔物へと向き直る。
再度戦場へと戻ろうとした時、ウルスはその声を聞き逃さなかった。
透過性のある壁とはいえ、それは音を遮断する能力を持ってはいる。それでもなお、内部からは咽びなくような嘆きが溢れだしている。
誰も気付かない。
勇ましき少女は顔を歪め、胸部の半面を晒しながらも剃刀の海を泳ぎ、果敢に攻めていた。
仮面の少女は精神をより深く、この世界からは遠くへと送り、事態を変えようと躍起になっている。
誰も、一人の男の駄々に耳を傾けてはいなかった。
熱なき炎の足場を靴底で叩き、半円程度の助走から放たれる破城槌の如く打撃が、蛾の胴を撓ませる。
この間に合図はない。支援への礼をし、受け取る余裕がないことを、両名が理解しているのだ。
持ち場を離れていくウルスを認識し、エルズは彼を止めようとする。だが、この瞬間に、彼女はようやく辿りついた。
目を細め、唇を噛みながらも事実の一端に触れ、ひとつの違和感を覚えた時点でその場を脱する。
「ティアを見捨てるつもり!?」
「渡り鳥には合図を済ませた。クソガキはさっさとアレを止めろ」
振り返ることもなく、彼はそのまま髑髏面の脇を走り抜けていき、結界に閉じこもる青年に向かって拳を叩きこんだ。
天属性の壁は揺らぐこともなく、打撃がクオークに襲うことはなかった。音や振動も届かず、塞ぎこんだまま、動こうとしない。
「……いつまで震えていやがる」
「……」
「ガキ共が戦ってるだろうが……っ!」
一言目の時点で、音は聞こえていた。それでも、答えなかった。
しかし、今度は違う。
「あの子達は……あの子達は強い冒険者だ! ぼくとは違う!」
「あいつらもランクⅣ、お前と同じだ。それにお前は、あの魔道二課の人間だろうが」
「知らない! 知らない知らない! ぼくだって好きで魔道二課になったわけじゃない! それに、魔道二課なんかじゃ、魔物と戦えっこない!」
恐れ、逃げていく最中に同僚の魔力が消えていった感触を、彼は忘れていない。
裏づけのある言葉。それであっても、ウルスは表情を厳しくし、理不尽なものとは違う怒りを滲ませた。
「てめぇみてぇなザコを、魔道二課の基準にするな……!」
顔を上げたクオークは確かに、その発言を聞き、頭でも理解した。
この言葉は組織への侮辱に怒ったのではないのだと。魔道二課にいる──もしくはいた人間への敬意などが生んだ激怒なのだと。
「善行を積んで、それで罪を意識を消しても無駄だ。何かで埋め合わせようとしても、後悔や恐怖は永遠に消えない──逃げている限り、救いは絶対にない」
ウルスは知っていたのだろう。目の前の青年がこのまま進んで行った先がどうなっているか。
ウルスは経験していたのだ。逃げて逃げて、代替に縋り続けた後に何が残るのか。
そして、もう戻れないと理解した時にようやく悟った。だからこそ、もう諦めていた。
彼からすれば、クオークの運命はまだ変化の余地があると──可能性が閉ざされていないと見えたのだろう。
相手の顔から目を離し、安堵と閉塞の底へ向かおうと、クオークは首を動かし始めた。
刹那、少女の悲痛な叫びが周囲にこだました。




