9r
──風の大山脈の麓にて……。
日の出によって次第に明るみを帯びていく空を眺めながら、エルズは目を開けた。
「ティア、行くよ」
「……えっ?」
擬態していたと言われてもおかしくない色の長い髪を揺らし、本当に眠っていた──よだれを垂らし、だらしなく股を開いて──相棒の肩を叩く。
「時間」
「あっ! そっか」
いくら一日も掛からないとはいえ、昼夜歩き続けるのは不可能だった。
それでも、長距離移動の歩調を崩さず、半日以上の移動を行っているのだから、一般的な認識での遅れはない。
森や丘などが視界を遮るも、それらの欠けた部分からはしっかりと麓の様子が窺えた。
ついに故郷へと戻ってきた、という状況で足を止めているのにも理由があり、この山脈を踏破するには予想以上の体力を必要とするというのが最たるものだ。
幸い、北部は集落──全てが鉱山の付属──以外には人が住まず、誰かに遭遇することは皆無といっても過言ではないだろう。
エルズとしてはあの場に──コーラルに刺客が現れることを考慮していただけに、ここまで来れば発見は不可能とみていた点もあるだろう。
一族からもギルドからも追われない、安心安全な位置。その唯一の場所がここだった。
「エルズ、眠くない?」
満月のように真ん丸な瞳は異質感の強い少女を捉えている。その表情や容姿からは窺い知れない経験も、精神性も、秘めたる疲労さえもその一部として。
「問題ないよ。それに、追っ手がこないって決まったわけじゃないからね」
「追っ手?」
理解していないらしく、首を傾げて問いかけてくる愛しき人の肩に手を置き、鋭い目付きで南の方角を睨む。
「たぶん、ティアの読みは正解だったと思うよ。あの場所には誰も来ない──冒険者ギルドが厄介と思っている人以外は」
「……悪い人?」
「都合がね」
自分よりも年下の少女に向かって、露骨に考え中であるという仕草を見せた後、過剰な動作で理解したことを表現した。
もちろん、互いに互いを同等と思っているだけに、これらのやり取りに深い意図はない。
「だから避難したの。本当なら適当に時間を稼いでから戻るほうがいいけど……ティアは里のほうに行きたいんだよね」
コクリと頷き、ティアは保存食──ものは言い様で、ほとんどがおつまみ──のたっぷり入った灰色のズタ袋を背負い、進み出そうとした。
善は急げが本分であるということは、エルズも理解している。だからこそ、こうしてすぐに行動を始めるのは珍しくはなかった。
ただ、帰郷という個人的な都合──フィアの要請でもあるが──でそれを行うというのはそうそう起こることではなかった。
違和感からの焦りか、いつもと変わらない距離感で先行く相棒に追いつこうと、早歩きで追う。
「ねぇティア!」
「えっ? なに?」
「あっ、意外と普通の反応」
別に目付きが変わっているということもなく、魔力が棘々しくなるということもなく、彼女はいつも通りだった。
エルズは安堵し、いまから向かう場所で数々の悪行を行ったことさえ忘れて、小さくも大きな背中に続こうとする。
途端、空気を通じて冷やかさが──熱気が襲った。
威圧感は本来、黒金の如く冷気や重圧を帯びているものだが、これは溶解した灼鉄を想起する熱さを持っている。
感知を得意とする者は数値としての認識で魔力を読まず、こうした感覚で計る。計測した上で、それらの数値を出すというのが定石だ。
しかし、この強力な魔力は彼女らのように術に精通した者でなくとも、熱を想起させるにたるものだったに違いない。
「大丈夫だよ、エルズ」
「ううん、大丈夫じゃない」
遠くに見えるのは、二人の男の影。一人は性別が不明だが、もう一人については男だということが断定できる。
さらにいえば、その者は性別どころかどこの誰であるかも明らかだった。
「あのオッサンだけなら分からなかったけど、隣にいる奴がいるからには……」
「敵になっちゃったってこと?」
被りを振り、「分からない。でも、警戒はすべきだと思う」と経験と判断で折半したような決断を軍師は下した。
それには従うとばかりに、ティアは肉体に感覚を巡らせ、構えのない状態からすぐにでも戦闘を行えるように準備を行う。
頭上から落ちてくる眩しい赤天井を認識した時点で、二人は駆けた。




