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「す……すみません、スワンプはこの辺り……ですか?」
姿を現した男は金色の髪と橙の瞳を称えた、気弱そうで女々しい態度をする者だった。
声の変調は恐れや警戒を意味するものではなく、単純に人見知りによるものと思われる。その証明とするには不足だが、彼は構えを取っていなかった。
「あの……スワンプは……」
臆病な子供を思わせる態度に、ウルスはばかばかしく感じたのか、警戒や戦闘体勢を崩す。
「ああ、ここいらだ。それで、名前まで出しているからには迷い込んだ、じゃねえよな?」
泥をかき分け、ゆっくりと近づいていきながらも、威嚇と思わせない愉快な声色で問う。
「は、はい……あなたは、村の人間ですか?」
「ああ、そうだ」
「……大丈夫です。出てきてください」
途端、木の陰から一人の老婆が姿を現した。神経を尖らせたウルスがその存在に気付かなかったという時点で、なにかしらの術が使われていたのは明白。
「(天ノ番百十七・閉天位か?)」
指定した空間の魔力を遮断し、封印する術。行動の制限や術の制限がないのだから、一対一の戦闘をこっそり行う為にしか使えない。
彼のように、移動する対象にも用いることができなければ。
「あら、あらあら! ウル坊じゃないかい!」
「よぉ婆さん、相変わらずみてぇだな」
その老婆は村の住民ではあったが、しばらくその姿を確認されていなかった人物でもある。
それもそのはず、いままで彼女は買い出しに出かけていたのだ。そして、そのまま戦争が始まってしまい、戻るに戻れない状況に置かれていた。
ただ、それについてはウルスも知らない為、どういう事情なのかを聞きだそうとする。
「婆さん、そいつは?」
「この子かい? この子はクオークって言って、私をここまで運んでくれた冒険者さんだよ」
謙遜するような仕草でどうもどうもと頭を下げる男の──クオークの様子を再び観察し、ベテラン冒険者は気付いた。
その者が冒険者らしくないこと。その者が冒険者の行動理念──儲けと楽さを重視し、手段を選ばない──から外れていること。
そしてなにより、この者からは冒険者特有の泥臭さがないことに。
村に招待されたクオークは最大のもてなしを受け、宴の席で主役となっていた。
泥巻貝の身を分厚くスライスし、スパイスや果実で調整したステーキ用ソースを染み漬けるように焼いたものを出された時、彼の表情に驚きが浮かんだのをウルスは見逃さない。
外見上は分厚い赤身の牛肉であり、これが貝であると告げられていないからこそ、あり得ないものをみたように驚愕したのだろう。
つまり、彼はこの地をよく知らない。意図して訪れたという線も、これによって完全に消し去られた。
もとより淡泊な味のステーキだからこそ、香辛料の風味が強いソースで調理されてしまえば、もはや貝であることは判断不能。
どっきりのように真実が告げられ、クオークは足を踏まれたかのように飛び上がり、すぐに席に座り直してからはにかんだ。
泥エビの揚げ物、泥に浸して発酵させた山菜や根類の漬け物、泥に漬け込んだ──もちろん容器に入れて──自家製酒。
《紅蓮の切断者》として各地を渡り歩いたこともあるウルスからしても、この村の食事はかなり奇抜だった。
地面が緩く、水気が多すぎる為に沼地化した地帯。北東部はそうした圧倒的に悪い土地状況が影響し、支配する貴族の数は五指を必要としない程。
ここだけではなく、北東部の大半ではこうした風変わりな食事、文化が根付いている。
ただ、冒険者ギルドの追手から逃れるにはうってつけの場所だった。意図してこの土地にくる者など、そうそういるものではない。
盛り上がる住民──ほとんどが老齢で、クオークが孫にも見える──の熱から離れ、彼は黙って酒を飲んでいた。酔いの感覚を計りながら、飲まれないようにして。
そうして時間が経ち、深夜にさしかかった頃には──そうなるずいぶん前に大半は眠っていた──全員が夢の世界に落ちた。
最後の一人が酔いつぶれたのを確認すると、暗色の付きまとうスワンプとは相反する、明色の若人は立ち上がる。
「厠か?」
「……あっ、あ……起きてたんですね」
最初は予期せぬ者への反応として、次は言葉を切り出す口癖として、同音を口にした。
ウルスの瞼は入り口を狭め、睡魔に敗れた者のそれと大差がない。それでも、赤い瞳は亀裂の内に覗く溶岩のように、赫々と燃えていた。
薄い明かりは蝋燭一本のもたらしたものであり、九人の友を失った最後の生き残りだった。彼もまた、終わりの時までを数える程になっている。
「宿の場所を教えるべきか? 新しい灯火を用立てすべきか?」
自分の未来を──予定を見透かされたように感じたのか、唇を躊躇いで濡らしながら席についた。
「戻ります」
「そうか──依頼か?」
「いえ、ただ……ただぼくは、どこかに行きたいだけだと──だと思います」
「それは逃れる為か? 戦う為か?」
「逃避する為ですよ」
決まりきった答え、決めゼリフ、そんな感触を覚える言葉は、妙に明瞭で聞き取りやすかった。
「放浪の旅は悪くない、気楽だからな。自分の情報も、紙を水に漬けたように散ってくれる」
「なんで分かったんですか?」
「お前、冒険者の臭いがしないんだよ。上品なお紅茶、ビロードの服と同じ上品な気配。こんな雑草の世界に長く生きてきたんだ、すぐに分かる」
ここでようやく、クオークもウルスの正体を悟った。
強力な使い手という話ではなく、その者が冒険者であると。自分よりも上のランクであることも。
「まぁ、止めはしねぇよ。だがな……」
唾を飲み、若者は熟練の先駆者が向ける真剣な眼差しを受け止めていた。
瞬間、瞳から光が消える。
「夜の泥沼を抜けるのは危ない。今日はおとなしく休んでおけ」
声だけだったが、だからこそ従うことを決断できたのだろう。
最後の蝋燭が消えた瞬間、注視していた男の他になにも見えなくなったのだ。
暗闇に慣れたとしても、沼の深まった部分に足を踏み入れたらどうしようもない。
ウルスは指先に赤い炎を灯し、後輩の──冒険者らしからぬ冒険者を連れ、自宅に向かった。




