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部屋の外に出た善大王とフィアは、甲板に向かい、海の様子を眺める。
定期船の一室、貴族などの大金を支払った客だけが使える部屋が先程の場所だ。今回はほとんど使用者もいない為、善大王は特上の個室を選択した。
「……乗客の不安は大きいみたい」
「だろうな」
普通であれば、昼間は日光浴でもしようと乗客は甲板に出てくる。しかし、今日に限っては全員が船内に籠もっていた。
それもそのはず。天を見上げても、曇天とは異なる灰色の空しか見えず、降り注ぐ光も常よりは少ない。
件の事件で善大王が使用した海路を通っているだけに、《嵐の海域》からの強風も届いていた。
遙か彼方の闇の国──当時は大陸だけだったが、今や周囲の領海内すら──は、以前の比ではなく深い霧に包まれ、目視することは不可能。
「ライト、体調は悪くない?」
「いや、平気だが……《皇の力》の副作用があるのか?」
「……そうじゃないけど。大丈夫なら、問題ないよ」
フィアの心理を覗こうとした瞬間、二人は視線を合わせた。
見えない圧迫感、肌や魂だけが認識するそれは、瞬時に物理的衝撃へと変わる。
スコールの如く飛沫を撒き散らしながら海底から浮上してきたのは、翼の代わりに鰭がつき、手足には水掻きがついているという水龍型の魔物だった。
その巨大さは驚異としか言い様がなく、数千人単位が乗り込める定期船の半分、もしくは三分の一ほどの巨体。
船が大きく揺れ、客席からの声が外の二人にすら届く。混乱、恐怖、狂気……そうした負の感情が、この定期船には満ちていた。
不安そうな顔をしたフィアの肩に手を置くと、善大王は屈み込んで彼女の頬近くに自身の顔を並べる。
「この場で戦えるのは、俺とお前だけだ」
「……うん」
以心伝心とばかりに、二人は互いの背を合わせた。
「俺は乗客を避難させる。フィアは時間稼ぎを頼む」
「ライトが来る前には決着をつけるから」
そう言い、二人は完全な別行動を開始する。
すぐさま船内に入り、混迷を極める乗客に向け、善大王は叫んだ。
「我こそは神に選ばれし光の皇、善大王だ」
白い法衣を翻し、身を大きく見せるような動作をしたからか、全員の注意は想定通りに集まる。
ざわつきながらも、混乱の大部分が消えた時点で善大王は切り出した。
「現在、魔物の出現が確認された。数は一、これだけであれば労する相手ではない」
とはいえ、言葉だけでは納得しないとばかりに、ざわつきはやまない。
仕方なしと、善大王は追伸でもう一つの事実を告げた。
「今は《大空の神姫》が抗戦している。俺が加わることになれば、この世界に恐れる者はない」
「……あの《大空の神姫》が?」
「善大王と天の巫女がいるっていうなら、俺達助かるんじゃないか?」
乗客の中に、ほんの少しとはいえ希望が生まれだした。こうなれば、どうにでもできる。
「乗客は騒がず、落ち着いて船の後方に逃げてくれ。前方はどんな被害がでるか分からない」
もはや疑うはずもなし、乗員は彼の指示のまま、ゆっくりと規則正しく前進していった。
すぐにでもフィアを助けに行くのが最前手のようにも見えるが、善大王は全員の退避が完了するまで向かう気はない。
それほどに、彼女を信用しているのだ。
船内から脱し、外の通路を移動しながら後方へと進んでいく最中、善大王の予感は的中する。
前方に現れた個体ほどではないが、強力な魔物が静かに浮上しており、既に攻撃を放っていた。
鋭い黒墨が噴射され、客席の前半分が一瞬で吹き飛ぶ。
既に避難が完了しているからこそ犠牲者はいないが、一歩遅れていれば大量の人間が殺されていた。
藍色の瞳を輝かせるイカ型の魔物。大きさは中型戦闘艦くらいだろうか。
「こちらにも魔物が……やはり、駄目なのだろうか」
「いや、善大王様がいるのであれば……」
乗客達の不安の声を聞きながらも、善大王は最大限冷静さを保ちながら、状況判断に務める。
自身で先陣を切っているからこそ、遮蔽物はなにもない。直線的な攻撃も可能だ。
ただ、魔物に術がさほど効果がないことは、彼も知っている。
如何に犠牲を減らすか、それを考えて動かなければならない──その為ならば、彼は自分の命すら賭けに預ける程だ。




