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──《光の門》で善大王と出会う前の出来事……。
「姫様」
「……何?」
寝巻を身にまとったまま、フィアは天蓋のついたベッドで横になり、虚ろな瞳で絵本を眺めていた。
呼びに来たメイドの二度に渡る呼びかけで、ようやく反応し、気だるそうにベッドから這い出てくる。
「ビフレスト王がお呼びです」
「なんで?」
「ルスナーダ様がお越しになっているのですよ」
フィア自身はその名前に興味がなく、記憶にすら留めていなかった。
ただ、それが天の国の有力貴族だというのだから、彼女の無関心さは国にとって損害を生み出しかねない。
「分かった。着替えさせて」
体を任せ、衣服を整えさせた。
整った顔つきとは相反する無気力なフィアは、着飾られることで着せ替え人形のような装いになる。それは皮肉であり、直喩でもあった。
少女でありながらも、心を奪われてしまいそうな容姿を持ってはいるが、その表情は完全な無表情。心、ここにあるずを体で表しているような様子。
贅を尽くしたというよりかは、清楚さを表に出したドレス。淡い空色の生地に、最低限度のフリルがつけられている。
リボンを結びつけているはずもなく、ティアラや王家の首飾りなどの飾りだけで、姫であるということは一目瞭然だった。
その格好のままビフレスト王に会うと、評価するかのように全身を確認される。
「うむ、姫らしい格好だ」
フィアはこれを、良くない反応だと見ていたのだが、実際はビフレスト王の表情は軟らかかった。きっと、娘が可愛かったのだろう。
そうして、ビフレスト王の後をついていき、ルスナーダを待たせていた応接間に入る。
そこには、大貴族でありながらも落ち着いた礼服を着ている壮年の男と、フィアと同じ年齢と思われる少年──こちらは贅沢さや派手さが出ている──が立ったまま待っていた。
「この美しい瞳──あなたが、かの有名なフィア様ですか」
「えっと……」
答えられずにいると、ビフレスト王が引き継ぐ。
「そうだ。私の自慢の娘だ」
「いやはや、《空色の宝石》とは聞いていましたが、比喩することすら憚られる美しさ。まさに、文や言葉では言い表せない美、といったところですな」
「そうであろう」
初めから娘を自慢する気だっただけに、ビフレスト王はご満悦といった様子だった。
そうしていると、貴族は自身の息子を前に出し、紹介を始める。
親馬鹿であっても、ビフレスト王は完璧な王だ。社交辞令な応じて、相手の子供も誉めてみせる。
心地よい話から切り出し、緊張感を消し去った後、周辺貴族との提携や民の扱いについての話題に移行した。
コミュニケーションにおける基本は、世間話だという。大人であっても、気持ちや気分次第で多少の色をつけてしまうのだ。
「(ただ瞳を誉めるだけで済むとは、《空色の宝石》とは良い比喩があったものだ)」
心を覗けるフィアからするに、貴族の考えている内容はすぐに分かってしまう。
かなり性格の悪いようにも見えるが、歴代の姫を知っているだけに、あまりに無愛想なフィアに良い印象を抱かなかったのだろう。
口や態度、表情に表わしていない辺りはさすが大貴族か。
そう言われることも多かった為か、フィアは心を痛めただけで何も言わなかった。
それからはできるだけ心を覗かないようにし、黙って二人の会話を聞き流す。
大人の話を聞いても楽しいはずがなく、フィアは黙って虚空を眺める。
内容が理解できないわけでもないが、この時の彼女からすれば、知る価値もない情報だった。
そんな時、自分に近付いてくる少年に気付き、視線を移す。
「ねぇねぇ、遊びにいかない?」
年不相応に礼儀正しいらしく、親の会話の邪魔にならない程度の小さな声で言う。
この少年もまた、幼いながらもフィアの容姿に惹かれているのだろう。
もちろん、親二人組は聞こえているが、子供同士を遊ばせることに問題を感じてはいない。だからこそ、あえて子供の話は子供同士に任せていた。
「……私は」
「ね、行こうよ」
手を握られた途端、フィアは拒絶を示し、手を叩く。
「えっ……ご、ごめん」少年は謝った。
「──! 何をやっている。姫様に手を出すとは」
ルスナーダは貴族としての責務とし、謝罪に入った。もちろん、子にも頭を下げさせる。
ここまでであれば、王族と貴族の差で済むこと。そして、事実としてこれで終わるのが普通だった。
「子供ならば良くあることだ……頭を上げてくれ」
「ですが……」
「構わない。子供同士のコミュニケーションも取れないようでは姫として困る。後々叱りつけておくとしよう」
王の恩赦が出され、二人は頭を上げた。
しかし、蟠りは消えていない。いくら相手が王だとしても、貴族として高みにのぼり詰めた者が頭を下げるのは、プライドに傷が付くのだ。
「(何故あのような娘に、頭を下げなければならないのだ……)」
自分勝手に怒っている、というのもある。だが、彼からすれば息子が謝罪を強いられた事実こそ、憤りの大半を占めていた。
貴族は大抵の場合、血統を大事にする。打算を入れても、自分の後続となる息子は重要な存在だ。
ただ、そのような都合を知るはずもないフィアからすると、この心の声は刃のように突き刺さる。
「(せっかく遊んであげようとしたのに、全然可愛くない)」
少年の声が耳に入り、謝罪がただの形だけでしかないことを悟った。
フィアにも落ち度があるにもかかわらず、ここまで相手を悪いと決め付けている時点で、彼女だけが可愛そうという話ではない。
それは大人の理屈……子供のフィアからすれば、この状況は耐え難いものだった。
席から立つと、急いで扉を開け放ち、部屋を出て行く。
そうして逃げても、先程の貴族の心の声が頭に反響した。
「(あのような者が姫では……私の──いや、息子の世代での地位まで揺るがされかねない)」
逃げようと城内を走り回るが、能力の解除という考えも回らず、城内に務める者達の心の声がノイズとなって響く。
耳を覆おうとも、声はやまなかった。五感に縛られない、精神への直結であることはフィアにとって、デメリットにしかならかった。
その日以降、フィアの引きこもりは加速する。
人を拒み、絵本も寝ている間に仕入れるようにと命令まで出していた。
そのような態度を取ったものだから、城内で働く者達はフィアに良い印象を抱かなくなっていく。むしろ……悪い印象を持つという始末だ。
荒廃した生活。絵本も読み終え次第、部屋に投げ、気に入らなければ手を付けすらしない。
食事も運ばれてきたものを食べるだけ。ビフレスト王が公務を早めに終え、食事の時間を作ろうとしても、全てを拒否した。
そこでビフレスト王が怒らなかったことは、予想するに難くないだろう。
だからこそ、誰もフィアを止められなかった。誰も、彼女と関わろうとしなかった。
そんなある日、ビフレスト王が部屋にやってきた。
「フィア、起きろ」
「……なに?」
昼に目を覚ましたフィアは、堕落しきった様子でビフレスト王に視線を送る。体は動かさなかった。
「たまには、外に出なさい」
「やだ……」
ビフレスト王は、フィアを叱らない。叱ることが、できなかった。
手持ち無沙汰な視線を泳がせると、投げられた絵本が目に入ってくる。
三つの試練、妖精と光の門、竜の姫、雨粒の王などが転がっているが、女騎士カルマは用意された状態で放置されていた。
「読まないのか」
本を広い上げ、フィアの視界に入れてみると、ようやく反応が返ってくる。
「読みたくない」
「……そうか。このような本からでも歴史を知ることはできる。姫として、全てに目を通して欲しいと思っていたが」
「歴史なら、全部知ってるからいらない。ただ暇だから読むの」
どうしたわけか、フィアは通常の《天の星》と異なり、かなり早い段階から能力を自覚していた。
だからこそだろうか、彼女は勉強を必要としない。栄養についても、摂らずとも容姿や健康に影響は及ばないだろう。
「外に出てみてくれないだろうか」
その言葉が出た途端、フィアは羽毛の枕で両耳を塞ぎ、震え出した。
「やだ……やだ、怖い……みんな、みんな私を邪魔だと思ってる。みんな、私のことを悪く言う……やだ、されたくない、やだ……怖いよ」
演技であれば可愛いものだが、彼女は真にそれを思っている。
外への、人との接触が、再びあの感覚を呼び覚ますものだと自覚しているから。
これを幾度か解決しようと、ビフレスト王は動いている。しかし、外に出るという単語を出した途端、このように錯乱し始めるのだ。
いくら《星》の能力を体得していたとしても、フィアの精神は年相応な子供。
抽出され、純度が極限にまで高められた、本音の悪意を向けられて平気なわけがない。
──しかし、どうしてフィアは能力を平常時に使えるのだろうか。何故、それによって彼女の精神が疲弊しているのだろうか。
閑話休題、娘の怯える姿を見ていられず、ビフレスト王は背を向けた。
「今でなくともよい……気に病まぬようにな」
これこそが、ビフレスト王の負い目。
この時、彼はフィアを救うことができなかった。できたこと、やったことといえば、彼女が他者と接触しないように計らっただけ
だが、《天の星》としての自覚はあるらしく、そうした精神疲労状態でも式典などには参加している。
自らの顔をベールで隠し、心を止め、能力を極力発動させないようにし──そこまでして、ようやく彼女は普通でいられた。
フィアは、精神を病んでいた。




