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──今から数ヶ月前。《風の大山脈》にて。
「出して、出してよぉ……」
「黙れ! お前が闇の国からの刺客だということは聞いている」
《風の一族》は外界との接触を完全に絶っている。
だからこそ、この闇の国について知っていることはなかなかに不可思議な状況だった。
「(どうしてこの部族にエルズの存在が気づかれているの?)」
一見するとただの子供でしかないエルズに、完全な敵意を持つことはなかなかに難しい。
ただ、それでもこの看守は牢の中のエルズを睨みつけ、敵意を振りまいていた。それは、この一族が閉鎖的だからというだけではない。
「エルズはただ迷子になっただけだよ……ママぁああ」
泣き出すエルズはアイを完全に演じきっていた。
ただ、それでも本当の名前を出しているのは、自身を洗脳していない表れだろう。
仮面は懐に納めているが、この状況では一瞬の発動も許されない。確実に、相手の手に握られたナイフの方が早く動くだろう。
「(どうやって逃げようかな……それにしても、エルズがこんなあっさり捕まるなんて)」
エルズは途轍もなく高い能力を持っている。それは《選ばれし三柱》であるからこそであり、彼女の父であるムーアからの教育の賜物だ。
そんな彼女でも、人間の常識を越えた運動能力を持つ相手には勝てない。
精神干渉系の頂点である《邪魂面》は、発動さえすれば完全催眠に陥らせるが、仮面をつけるという動作を成功させないことにはどうしようもないのだ。
まさに、奇襲の耐性がない先制特化型というべきか。
手を出しあぐねていたエルズの前に、一つの大きな変化点が現れた。
魔力探知を敏感にさせていたエルズの肌はピリピリと刺激され、空気を圧迫するような魔力の接近に冷や汗を流す。
音は上から近づいていた。外は木製の住居が多かったが、どうにもこの牢屋は地下に存在するらしい。
石を踏む音が、固く圧迫された土の空間に吸い込まれていく。
途端、エルズは唖然とした。
降りてきたのは、ただの子供。
誰よりも緑の性質を強く持つ──風属性の性質を大きく示している、可憐な少女。
「(誰……でも、この魔力、ただ者じゃない)」
「ティア様、何故このようなところに……」
看守の男が頭を下げた時点で、このティアという人物が《風の一族》における中心的な人物だということが明らかになる。
エルズはこの時点で、一つの解決策を思いついた。
なにかしらの方法でティアと接触を図り、隙を作った時点で洗脳する。
「ちょっと、この子と話したいんだけど、いいかな?」
「いけません! この娘は子供の外見ですが、凶悪な殺人鬼です! それはティア様も知っているはず」
「それでも、だよ。とりあえず、二人きりにしてくれないかな」
まさに好機。エルズにとっては待ちに待った機会がやってきたのだ。
「ですが……」
「族長の娘としての命令。出て行って」
「……わかり、ました」
そう言い、看守は階段の上へと昇っていく。
二人きりになってから少しすると、ティアは牢を開け、中に入った。当然、鍵はすぐに閉める。
「あなた、名前は?」
「エルズ……」
「年は?」
「六歳……です」
「へぇ、私よりも七歳も下なんだ。それで外に出てるなんて、すごいなぁ」
七歳、という言葉を聞いた途端、エルズは驚きで子供の表情を崩した。
「七歳!? じゃあ、十三歳なの?」
「ええ、こう見えても十三歳だよっ! こんなんだけどね」
見たところ、年齢は十歳前後にしかみえない。たかだか三歳の差とはいえ、子供にとってのそれはあまりにも大きすぎる違いだ。
十三歳ともなれば、十分出産能力を獲得していてもおかしくない年齢。早ければ胸も大きくなりはじめ、女性らしさが現れてくる。
十歳の場合、ほとんどが子供だ。比較的中性的な顔つきな男子が女装しても、見分けられる人間はそう多くない段階。
女性らしさを獲得していないか、しているか。その差は明確だった。
「それで、エルズちゃんはなんでここに来たの?」
このような切り出しからは思えない、普通に冷静で当たり前な質問。
エルズは口を噤み、諜報部隊の人間として動いた。
「教えてくれない?」
「……迷子になったの」
「そうなんだ。じゃあ、それまでどこにいたの?」
一瞬で流された時点で、エルズは怪訝そうな顔をする。
「深く聞かないの?」
「えっ、迷子になったんでしょ?」
「う、うん」
ティアは、全くエルズを疑っていなかった。
これではまるで……。
「(見た目通りの精神年齢じゃない)」
この言葉で、エルズは自分の逃走経路が確保されたことを確信する。
「ねね、そんなことはいいからさ。外の話聞かせてよ! どんなのがあるとか、どんなのがおいしいとか! 楽しいとか!」
「えっと……話せるだけなら」
期待に胸を躍らせるティアが可愛らしく見えたのか、エルズは自分が巡った地のことを話した。
もちろん、プロフェッショナルとして闇の国のことは隠す。
「へぇ、いいなぁ。私も外の世界、行ってみたいなぁ」
「行ったことないの?」
「うん。私って族長の娘だからさ、ずっとこの里だけ。《風の大山脈》の麓まで降りるのが限界だよ。だから、外の世界に憧れてるんだ」
ティアの話を聞き、エルズは納得した。
どうして、別段珍しくもない旅物語だけでティアがあれほどまでに目を輝かせていたのかを。
この短い時間で、エルズはティアという人間をよく知った。
良くも悪くも、彼女はつかみやすい人間なのだ。分かりやすく、そして悪意を抱くこともない、善良で無垢で純粋な少女。
かつてのエルズならば、このような楽に落とせる相手を見て、さぞかし喜んでいたことだろう。
だが、今の彼女はそうではない。善大王とフィアとの関わりで、かりそめとはいえ善意などを得た。
「(この子を、洗脳したくない。まだ、別の方法を探した方がいいかもしれない)」
「ねぇエルズ」
呼び捨てにされるが、エルズは憤らない。
「なに?」
「エルズは、たぶんこの後ひどいことされるよ。私にも、それは止められないと思う」
「それまでには、なんとかする。……まだ、生きなきゃいけない理由があるから」
善大王とフィアとの約束。それを持っているからこそ、このような絶望的な状況でも、彼女は生きることを諦めてはいない。
「……じゃあ、私を洗脳しても良いよ」
「えっ」
「できるんでしょ? 友達から聞いたんだ」
闇の国の、外界の情報を知る友人。そんな人物がこの閉鎖世界にいるのだろうか、とエルズは疑問を抱く。
途端、答えは目の前に現れた。
ティアの頭の上で、風を浴びるかのように揺れているアホ毛。これはどうみても、フィアのそれと同じ。
そして……ライムとも。
この状況で分岐する。一つはフィアが自分を想い、助かる手を用意してくれたという説。
だが、それはエルズがこの場所にくることを知っている前提でのみ、成り立つ説。フィアがそれをしていたとは考えがたい。
第二の説は有力説。全てがライムの仕業という線。
ライムならばエルズが《風の大山脈》に行くことを知っていてもおかしくはない。かつ、ティアとも通信する手段を持っていてもおかしくないのだ。
ライムに感謝を示しながら、エルズは首を横に振る。
「それはできないかな。もう、悪事に手を染めたくはないから。誰かを洗脳したり、罪のない人を殺す気はないの」
善大王に影響され、人らしい一面を手に入れたエルズ。
ただ、この時点では狂気が──狂った常識が正されたわけではない。
「……うん、エルズはいい子だね。なら、こんなところに捕まえてもられないよ」
「えっ」
「友達は言ってたよ。エルズにはボディーガードが必要だって。そして、私はきっかけが必要だって」
「それってつまり……」
「エルズちゃんが悪い子じゃないって分かった時点で、一緒に逃げようと思っていたの。この山から」
満面の笑みを浮かべ、ティアは大きく息を吸った。
「すぅうううう……術を発動したの! 助けにき──」
看守はティアの声に反応して、階段を跳躍どころか滑るように降りてくる。
「ティア様!」
彼が目の当たりにしたのは、倒れているティア。そして、髪で瞳が隠されたまま、薄笑いを浮かべているエルズ。
「き、貴様っ……今すぐにでも殺して──」
「エルズを殺しても良いよ? でも、その意味があるのかなぁ」
その言葉を紡いだのは、ティアの口だ。
「まさか……乗っ取り」
「そう。別にエルズを殺してもいいけど、その場合はティアさんの魂がきえるよ。こっちを殺したら、エルズは消せるけどティアさんも死ぬね」
エルズの肉体にはティアの魂が。ティアの体にはエルズが。
これでは手を出せるはずがない。エルズの体を殺せば、術が解除されて戻る可能性もある。
ただ、それは所詮可能性でしかない。
族長の娘という重い命を賭けるには、あまりにも不足だ。
「手をあげなさい」
「っく……」
おとなしく従う看守を見て、ティアは笑い出す。
「うっかりにでも、目を離すべきじゃなかったわね。そのままずっと固まっていなさい、さもなければ……殺すわ」
そう言い、ティアはエルズを持ち上げ、木製の牢を蹴りだけで粉々に粉砕し、里の外に出た。
もちろん、全員が止めようとするが、ティアが削られた石を自ら首筋に突き立てた時点で制止する。
そうして里を無事に抜け出し、追ってがこないことを確認した時点で、ティアは息を切らせながら、エルズを地面に投げた。
「これで……逃げ切った」
誰もいないにもかかわらず、ティアはそう呟いた。
「逃げ切り、みたいだね」
「ちょっと不安だけど──作戦、だいせーこー!」
その声を出したのは、ティアだった。
エルズは斜に構えた感じで笑い、ティアの肩を抱く。
「ティア、ありがと」
「ありがとうはこっちの台詞だよ。これで、私もついに外界デビューかぁ」
胸をときめかせるティアを一瞥した後、エルズは山の麓を見た。
遠いが、降りていくルートは分かる。さらに、罠についてもある程度見切りがついていた。
一人で戻る、そんな考えを巡らせた途端、ティアが急に顔を近づけてくる。
「ねね、観光案内とかもしてくれるかな?」
「えっ」
「私、外の世界初めてだし。だから、エルズに案内してほしいな」
「……もう、仕方ないね。分かったよ」
大手を広げて喜ぶティアを見て、エルズは明確な幸福感を感じていた。
本来ならばティアを連れて行くのは、諜報部隊から逃亡する足手まといにしかならないのだが、今回に限ってはその足枷を受容するほどだったのだ。
地面に寝転がった二人はそこで改めて、自己紹介を始めた。
「私はティア、十三歳。夢は、女騎士カルマみたいになること!」
女騎士カルマ、それはエルズとしてもよく知っていることだ。
だが、そんな常識を抜きにしても、彼女からすれば印象深い存在でもある。
善大王が父親として、エルズの誕生日に渡したもの。初めてのプレゼントということもあり、彼女は小さなポーチに入れている。
「エルズは六歳。夢は……まだ、ないかな」
「えっ、なんかないの?」
「うん……」
そこで、不意にエルズは思い出した。
何故か、自分は闇の国から抜けようとしていることに。
抜ければ間違いなく、諜報部隊に追われる。それは決していい結果ではないのはずなのだが、それを選択しようとしたのだ。
冷静に考えれば当たり前のことだが、エルズは任務に失敗している。それも、二回。
次がないことは明白だ。それでも、そこまで考えた上でエルズは抜けようとしていたわけではない。
彼女は無意識に、ティアに当てられていたのだろう。悪も知らない、無垢な少女に。
「なにをするにしても、まずは冒険者にならないとね。所属していれば、とりあえず国籍を持っているのと同じ感じになるから」
「えっ、そうなんだ。さすがエルズだねっ!」
これこそが、二人の出会いだった……。




