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「アイ……私は、絶対に……」
「止まりなさい! 動かないで!」
既に体力の限界に足を踏み入れ、フィアの動きは鈍足になっていた。
彼女が体感する時間は恐ろしく拡張され、苦痛もじわりと広がるものから、グサリと突き刺さる痛みへと変化している。
「(ライト……ライトはずっと、こんな風に戦ってきたんだね。真似してみようと思ったけど、本当に辛いね)」
「やだ! 近付かないで!」
エルズは《魔導式》を展開し、咄嗟に反撃を行おうとするが、自動的に放たれたかのような橙色の光線は《魔導式》を一瞬で溶かした。
濁った空色の瞳は、深い闇色の光を灯している──いや、それは観測者が抱く主観なのだろうか。
この場で、彼女の目を見れば誰もが分かる。実際は何もないただの瞳、それでも……そこには、信じられない程の狂気が含まれていた。
どんな手を使ってでも──自分の命を賭けてでも、娘を救おうとするその覚悟。愛であると同時に、それは妄執であり、狂気である。
手が触れた途端、エルズは脱力し、地面に倒れこんだ。
そんな彼女の耳元で、フィアはつぶやいた。
「天ノ十九番・空線」
死を覚悟し、エルズは目を閉じる。
……しかし、展開された《魔導式》は起動していない。光線も、もちろん出ていない。
そっと目を開けたエルズの瞳には、亡者は写っていなかった。
虚ろな瞳で涙を流し、誰よりも強く優しい、母親の笑みを浮かべたフィア。
「あと、一歩届かなかったかな……悔しいなぁ、絶対に、助けたいって思ったのに……あはは」
そう言い残し、フィアは倒れた。今まで筋肉が緊張していたのか、急激に血液があふれ出して血溜りが作られる。
一歩、あと一歩のところでエルズは生き残った。
しかし、それが勝利ではないことを、彼女は認識している。敗北するより、殺されるよりも遥かに感じさせられていた。
敗北を。
絶対的なまでの、力量差を。
そしてなにより、覚悟の違いを。
「あそこまで煽っておいて……こ、この程度なの? わら、わ、わせるわ」
恐怖で舌が回らなくなっている。エルズはプロフェッショナルだからこそ、死を間際にしても誇り高く在ろうとした。
彼女のような人間でなければ、間違いなく失禁していただろう。そう考えるにこの様子ですら相当な具合だ。
「ほら、何か、言い返してみなさいよ!」
動かないフィアを蹴りつけるが、当然なにも返答はない。反応もない。
何度も何度も蹴りつけ、流れ出す血の勢いが僅かに増していった。
「あとは善大王を殺せば……エルズを警戒していない善大王さえ殺せば」
家に戻ろうとした時、咄嗟に魔力を察知し、フィアに振り返る。
息はないが、いまだに魔力は放たれていた。生命力は底を尽きていない。
「(殺しておくのが安牌かしら……でも)」
エルズは決して、感情を持たない人間ではないのだ。だからこそ、あの狂気に満ちた行動に恐怖を覚えている。
そして、同時にフィアがそこまでしてでも自分を止めようとした、歪みきった愛も認識している。
色々とフィアを煽っていたのは、おそらくこれが原因。アイとして過ごしてきた時間、彼女の意思がまったくなかったわけではない。
記憶喪失が復帰したと同時に、エルズの人格がおおよそ全てを上書きしたが、そこにこめられていた記憶や感情も同期されているのだ。
本当の両親が存在したというのに、半年という短い時間で、エルズの中には新たな両親の姿が写りこんでしまう。
幼いが故の、時間の密度の違い。過去と異なり、満たされ充足していたからこそ、それも一際だったに違いない。
フィアを母親として認めたくない、というエルズの意思。だが、同時にフィアを母親として認識しているというアイの記憶。
その両者の狭間で決断に迷いを生じさせ、エルズは殺しの手を選ぶことができなかった。
すると、今度は別の魔力の接近を感じる。この地では珍しい、光属性の魔力。




