17
誰もが眠りについた時、アイは目を覚ます。
キッチンに置かれていたナイフ──善大王が買いなおした──を取り、眠っている善大王の真上に立った。
フィアへの暴虐への怒りも含まれているのか、アイの攻撃に迷いはない。
しかし、振り下ろされたナイフは橙色の光線と接触した途端、瞬間的に蒸発した。
「……ッ」
「もう、手札は割れたみたいね」アイは観念する。
今の一撃、術の威力は常のそれとは桁違いの威力だった。以前は接触し、弾き飛ばしてからの蒸発──しかし、今回は触れた一瞬で気化させている。
絶対的な危機、それでありながらもアイは平成を装っていた。
照明は灯されない。それでも、今回ばかりはフィアも見逃しはしなかった。
「なんで……なんでこんなことを」
「それが最初の目的だったから。ただ、ここまで間延びするとは思っていなかったけど」
「……外に出ましょう。あなたも、それが望みでしょう?」
善大王を殺すという目的において、フィアは最大の障壁である。
しかし、正攻法──暗殺──ではフィアの目を突破できないと判断したからこそ、アイもそれを承諾した。二対一になれば、万に一も勝利できないと分かっていたからこそ。
家の外に出て、少し距離を稼ぐ間、フィアはアイに話しかけた。
「降伏する気はないの?」
「見逃してくれるの?」アイは半笑い気味に言う。
「ええ、見逃す。家族として、ずっと私とライトの傍にいるって、約束するなら」
「なら残念。アイ──エルズは主の元に帰られないといけないから。こんなところで寄り道しているのも、本当ならしたくなかったんだけどなぁ」
アイ──エルズが煽ってはみたが、フィアの表情からは怒りを感じ取ることはできなかった。
そしてある地点に辿りついた時、フィアは振り返る。
「最終通知よ」
「だから、ノーと言ったはずだけど?」
高速の発動、予期すらできない程の瞬間的な攻撃。
橙色の光線はエルズの首筋を掠り、服の肩部分を焦がした。
「殺せたのに殺さなかった……何のつもり?」
死の間際……いや、場合によっては確実に死んでいたという状況に置かれながらも、エルズは相手への挑発をやめない。
単調な作戦にも見えるが、エルズはもともと、正面突破型のフィアとは絶対的に相性が悪いのだ。
つまり、普通にやれば勝ち目がない。だからこそ、死のリスクを孕みながらも、相手に針を一本通す程度の隙を作らなければならないのだ。
「……何故、殺せなかったと思う?」
「……?」
エルズは気づいていない、フィアが殺さなかった、ではなく、殺せなかったと言ったことに。
「善大王との信頼? あなたが術の操作で違えるわけがないわね」
「違うわ」
「じゃあ、なに?」
問いを受けた瞬間、フィアは平静を装わず、涙をこぼした。
「……殺せるわけ、ないじゃない。アイは、私にとって、たった一人の娘なんだから」
長い静寂の後、エルズは声を高くして笑い出した。
「なにそれ、娘? あのおままごとを本気にしてたの? 本当、滑稽ね」
嘲笑うかのような声の中に、気づきもしない、気づけもしないような感情が含まれていた。
それは、きっと善大王ならば瞬時に気づくこと。フィアは、それを認知していない。
「おままごとだって言われても、滑稽だって言われても……私は、あなたを愛しているわ」
「じゃあ、エルズを助けてよ。見逃して、その上で──善大王を殺してきて。そうしたら、娘に戻ってあげる。ちょうどいいでしょ? あなたをあそこまで貶める男を殺すくらい」
その言葉を聞いた途端、フィアは口許を緩めた。
「ライトの考えていることが、ようやく分かったよ」
「……なによ」
「(でも、それなら私の仕事だよ……ライト)」
ゆっくりと後退していき、互いに距離を取っていく。戦いは避けられない、両者がそう判断したのだ。
互いの姿が視認できるできる限界。結構な距離を開かせた時点で、フィアは口を開く。距離は遠いが、それでも沈黙の世界では十分に届く。
「ライトを殺したりはしない。私にとって、ライトは大切な人だから」
「あそこまでされて、なんで庇うの?」
「……私がライトを愛しているから。そして、ライトも私を信頼してくれるから」
「ハッ、何を言っているんやら」
「私は、私は愛してくれている人も、愛している人も殺したりはしない。だから、あなたも救って見せるわ、アイ」
その言葉と同時に、フィアは駆けだした。
「(ライト、あなたが私を救ってくれたみたいに、私もこの子を救ってみせるわ──私と、あなたの娘をッ!)」
フィアはセオリーを無視し、エルズに接近して行く。
予期せぬ、完全な不意打ち。術者であれば遠距離戦に持ち込みながら、相手を甚振るのが基本。
さらに言えば、射程を拡張しても命中精度が落ちないフィアからすれば、自ら不利にしているとしかいえない。
「(頭のネジが飛んだのかしら……それにしても、あの馬鹿みたいな三文芝居──家族ごっこをした意味はあったわね)」
エルズはあの会話の最中、ずっと《魔導式》の展開を行っていた。それは地面、二人の間に展開された、上級術。
常のフィアならば気づいていたかもしれないが、今の様子を判断するにそうとは思えない。少なくとも、エルズは知り得ていないと断定していた。
迫るフィアは容赦なく術を発動してくるが、エルズもそれに応戦する。
「《闇ノ十四番・闇刃》」
放たれた橙色の光線に命中させるが、僅かに勢いを減退させた程度で効果はなかった。
軌道修正すら、エルズの予想に反してまったく行われていない。威力の差が、あまりにも大きすぎる。
短い瞬きをした途端、光線がエルズの腕を掠り、服を焼き焦がした。腕にも火傷の痕は残るが、威力から考えれば遥かに弱い。
「(エルズを殺す気ないってのは、本気みたいね。でも……なめられたものね)」
フィアの放つ攻撃を回避しながらも、エルズは着実に《魔導式》を展開していった。
「《闇ノ三十四番・解鋸》」
藍色をした鋸状の巨大な光の刃が現れ、フィアの体を引き裂こうとする。
対人体用の術、刃ではない部分を弾いて防御しない限り、肉体での防御は不可能。攻撃力の低い闇属性でありながらも、限定条件下で破格の威力を叩きだす。
その反面、術での防御や肉体以外──盾や小手──での防御にはめっぽう弱く、威力は恐ろしく減退するのだ。一応、服程度は貫通するが。
もちろんそのような術を全て熟知しているフィアは、冷静に橙色の光線を放ち、それを打ち消す。
順列があがってもなお、この消去能力。順列の無視は当然のこととしても、完全に消滅させるともなると明らかに異常。
「(三倍近くの順列を平気で消滅させてくる──いくら天属性でも、ここまでの対消滅は発生しないはず)」
明らかな実力差を示されてもなお、エルズは手を止めない。
そんな彼女を見て、フィアは寂しそうな顔をしながらも次第に距離を詰めていった。
「もう無駄よ。やめて」
「無駄じゃない! エルズは絶対に負けない」
「もし私を倒しても、次はライトがいるわ」
「あんな隙だらけな男、倒すことに苦労しない!」
再び、フィアは哀れむような表情を浮かべる。
距離はまだ遠い。少なくとも、エルズに数発の術を発動させることができるだけの距離だ。
「なら、もっと分かりやすくしてあげる」
フィアは手を解き放ち、まるで無抵抗かのようにエルズへとゆっくり近付いていく。
不審に思いながらも、エルズは術を発動させていった。
「《闇ノ四十番・栓抜》」
藍色をした螺旋状の刃──それこそ栓抜き──が放たれた。だが、フィアは回避しない。
攻撃は腕に掠り、傷口が開いて少量とは言えない量の血が流れ出した。
痛覚拡張、血液凝固の阻害、闇属性らしい精神攻撃への伏線としての術。少なくとも、この命中によって幻術が掛けやすくなる。
「(術を使わなかった?)」
もしやと思い、エルズは闇ノ十四番・闇刃を発動した。
予想通り、フィアは術による防御を用いず、そのまま直撃する。刺さったのは、右腕の上腕。
痛みに震え、抑えた声を僅かに漏らしながらも、フィアは歩みを止めない。
この時点で、フィアが口にした言葉を理解した。
もっと簡単に──それは、フィアとエルズの実力差を示す為の行動である。
「エルズを……エルズを馬鹿にしてッ!」
何発も藍色の刃が放たれ、次々とフィアの体に突き刺さっていった。しかし、この一見無謀に見える行動も、彼女の凄まじさを示している。
飛んできている攻撃は、全て急所──首、脇、心臓など──を狙い打っていた。それを瞬時に見切り、一撃死に繋がらない場所に当てるようにしている。
まるでゾンビのように、体中に刃を刺されながらも、フィアはゆらゆらと進んでいった。
エルズの恐怖がうっすらと差込み始めた途端、ついに運命の場所に到達する。この時点で恐れは全て消えた。
「フフッ! どうにも本当におままごとに没頭していたみたいね! 愚かね、天の巫女。《闇ノ百一番・針地獄》」
地面から無数の藍色の針が伸び、咄嗟にフィアは後退しようとする──それが普通だ。だが、結果は違っていた。
「母親の意地、ここでみせなきゃどこでみせるのよ!」
地面が伸びてくる針を回避し、掠らせ、移動を阻害されない程度に突き刺されながらも、フィアは前進した。
凄まじい読み、肉体の限界を越えた動き。それらにより、上級術の攻撃を突破し、フィアはエルズの顔面にまで迫った。
この時点で、エルズは敗北を悟る。この距離では術を一発唱えることもできないのだ。
そして何より、フィアの状況だ。
体中が血まみれで、傷口は開いたまま、ボロ雑巾のような姿になりながらも迫ってくるフィアを見て恐怖を覚えないはずがない。




