16
「起きろ」
「……眠い」
まだ日が昇る前、それこそヴェルギンの家で修行していた時の早朝に当たる時間だ。
「起きろ」
「あと少しだけ……太陽が昇ってから……」
善大王はフィアをベッドから引きずり出すと、少し大きめの声で言う。
「朝食の準備を進めておけ。俺は寝る」
「作ろうとすればそんなに時間掛かんないよ?」
「口答えをするな」
最初の言葉の時点で目覚めていたアイは二人のやり取りをみて、怪訝そうな顔をした。
「(善大王の機嫌が悪い?)」
最初こそは静観していたが、フィアが寂しそうな顔をした時点で、アイは善大王の手を掴む。
「パパ?」
「……アイか。まだ早い、寝ていなさい」
「でも、ママは?」
「ママは、それがお仕事だから」
目の前の横暴をどうにかして止めようとしたのか、アイは食い下がろうとする──が、フィアはかぶりを振り、「大丈夫、今から作るから」とだけ言ってキッチンへと向かった。
それを確認してから、善大王はアイに毛布をかぶせ、自分も眠りに落ちる。
日が昇りだしてから少し経ち、二人は目覚めた。時間が有り余っていたからか、フィアは食材を無駄に浪費しすぎず、かつそれなりに手の込んだ料理を作り上げる。
「なんかすごいね」
「少し時間が余ってたからね」
量が多いというよりかは、作る為の手順が多いものが食卓には並べられていた。
置かれているクロワッサンも、おそらくは生地から作ったのだろう。
三人は手を合わせてから食事を始めるが、全種類の食事に手をつけた時点で、善大王は机を叩いた。
「あれだけ時間があってこの程度か?」
「……だって、朝食だから」
「言い訳はいらない。作り直せ」
「……」
「早くしろ」
「ライト、なんで今日はそんなにひどいこと言うの? 私、なにか悪いことしたかな」
誰が見ても明白に、善大王は憤っている。
ただ、明確な怒りというよりかは、静かなる苛立ちというべきか……理不尽な当り散らしではなく、重箱の隅を突くような具合だ。
「自分の料理に非はない。俺の機嫌が悪いから駄目だと言われている、そう言いたいのか?」
フィアが頷いた瞬間、善大王は彼女を殴りつけ、そのまま蹴りを腹に叩きこむ。
「作り直せ」
「……」
怯えの色を出したフィアに対し、善大王は再び暴力を振るおうとした。
「パパ! ママをいじめちゃ駄目だよ!」
「……アイ、これはいじめているわけじゃないんだ。ママが駄目から、パパが怒っているだけ。分かるだろう?」
「でもっ! こんなの、ひどいよ。パパは優しいはずだよ」
そこまで言われ、善大王はしぶしぶと引き下がり、椅子に座りなおす。
その日の雰囲気はまさに最悪そのもの。フィアの適正な手抜きに対して、善大王は姑のように小言を挟んでいく。
フィアとしてもそれが事実であることは否定できず、やむなく完璧となるまでやり直した。
最初こそはそうした問題点の指摘だったわけだが、フィアがそれに対応し始めた時点で善大王は理不尽な言いがかりをつけるようになる。
食事がまずい、というのはその中でももっとも多かったもの。主観がはさまれるだけに、こればかりは対応のしようがなかった。
「じゃあ、どんな味付けがいいの? 具体的に教えて」
「お前は自分で考えられないのか? それじゃあここ以外の家庭じゃ生きていけないぞ……お前はここで妻として扱われている、それ以外はないと思え」
理論的な要求に対し、感覚的な意見だけしか言わず、事を詰まらせる人間は多い。
そうした者が全員が全員、無能というわけではないのだが、ことコミュニケーションに限っていえば不足としか言いようがない。
それは恰も、体のいい理由を付けて、その者を虐げる大義名分を作っているかのような……。
「それじゃ分からないよ。ちゃんと言葉にしてくれなきゃ──」
このようにフィアが言い返そうとした時、善大王は暴力を振るうようになった。痛みで相手を黙らせ、信用も信頼もズタズタにしながら黙らせる。
「パパ! やめて!」
「アイ、さがっていなさい」
「やだ! ママにひどいことしないで!」
「そんな愚図を庇う必要なんてないよ。アイは俺とだけ楽しく遊んでいればいい──そうだ、今からでも町に行くか?」
この提案に対し「ママは?」という問いだけを発した。
「もちろん、こいつを連れて行く義理はない」
「……ならやだ。アイは、ママをいじめるパパなんて嫌い」
「俺と二人きりは嫌なのか?」
頷いたアイを見て、善大王は仕方ないと、椅子に座りなおす。
「なら、今日のお出かけはナシだ。この使えない女と行くくらいならばな」
何故自分が虐げられているのか、どうして善大王はここまで攻撃的なのか、それを理解できないフィアは涙を流すことすらできずにいた。
それこそが彼女の性質。泣いたり怒ったり、感情の発散を行って処理をするという手段を知らない。痛みを感じなくし、ただ逃避する──十年以上、そうであったのと同じように。
ただ、解決策がないわけではない。
フィアの場合は相手の心が読める。それさえ使えば、どのような意図でこうした行動を行っているのかが知れるのだ。
しかし、夫婦である今、そのような力を使うのは信用を持っていないことと同義である。さらに言えば、それに気づかれた際には信頼を失う。
善大王ならば、確実に見逃さない。この状況でのそれは、明らかな自殺行為に他ならないのだ。
日に日に増していく善大王の暴行は明確になって行き、何かに付けてすぐに手を出すようになってくる。
そんな状況に疲れ、善大王が寝静まった夜にフィアは一人で家の外に出て、泣いていた。
涙を見せれば、きっと善大王は憤る。そうして彼に怒られると、フィアは自分が生きている理由を見失ってしまうのだ。
理解しながらも、涙は止まらない。誰も見ていないという安堵からなのか、それとも耐え難い孤独からなのか……。
感情が昂ぶった途端、扉が開く音が聞こえ、咄嗟に涙を抑えた。
「ママ?」
「……アイ? ごめん、ちょっと待って」
涙を拭い、鼻を啜りながらも、フィアはアイの顔を見る。
心配そうな、それであって同情や哀れみの感情を含ませた顔。自分の娘、記憶喪失の少女にこのような顔をさせてしまったことを、フィアは後悔していた。
「ごめんね……ごめんね」
「謝らないでよ」
「ごめん……どうして、こうなっちゃったんだろうね」
感情は揺れ続け、流れ出さずとも悲しみの感情はフィアの中を巡っていた。
「ママ……泣いても、いいんだよ?」
そう言われた瞬間、フィアはアイを抱きしめ、泣き出す。
「ごめん、ごめんね……アイ。すぐ、もうすぐ元のママに戻るから」
泣き終え、詰まっていた感情が穏やかになった頃、扉が強く開け放たれた。
「……何をしている」
「ライト……」
「アイを夜遅くまで起こしておくとは、なんのつもりだ?」
フィアの胸倉を掴み、自分の顔の位置にまで持っていく。当然、首が絞まり、呻きのような声を漏らした。
「パパやめてよ! ママは泣いてたんだよ!」
「娘の前で涙を流すなどとは、恥知らずが……これだから、使えない女は」
地面に投げ捨てると、そのまま蹴りつけようとする。
しかし、アイがその間に割って入ると、善大王は寸前で足を止めた。
「……アイ、早く寝よう」
「もう、いじめない?」
「……寝るよ」
倒れているフィアを尻目に、アイは善大王と共に寝室へと戻っていった。
善大王にあそこまでされながらも、フィアは涙を流してはいない。心を殺しているわけでもない。
「(今の……ライト、もしかして)」
フィアは無自覚に能力を発動させていた。それは一瞬、刹那であり、詳しい情報を知るには値しない。
ただ、それでも彼の態度からは本当の感情を読み取れなかったのだ。それこそ──まったくそうは見えないが──演技しているかのような。
善大王が何かしらの意図で自分を虐げているのであれば、それは確実に意味がある、とフィアは解釈した。
だとすれば、どうしてこのようなことをするのか。結局、フィアはその最後の答えに辿り付けずにいた。




