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──同日、夕刻。
「ライトー! いこー!」
「あ、ああ。ちょっと待ってくれ、すぐ終わる」
残る書類は数枚。数時間でやりきったことを考えると、凄まじい処理スピードだ。
フィアは何の気もなく机の上を眺める。すると、昼に用意したサンドイッチがまだ残っている様が明らかになった。
ティーカップからは湯気の上がっていない紅茶が半分ほど残っている。
これだけみれば、かつてのフィアは嘆いていたことだろう。ただ、今は違う。
「(夕方まで終わらせる為に、頑張ってくれたんだね……ありがと、ライト)」
残り二枚、そんな時に善大王は机に顔を向けたまま問いを投げかけた。
「なぁフィア。神器ってのは、正規の使用者がいるわけだよな」
「そうね」
「じゃあ、入れ替わりとかはどうなんだ?」
「……使用者──ホルダを上回る適応者が現れれば、勝手に入れ替わるはずだけど。あと、もっと簡単なのは──現使用者の死亡ね、その場合は次に適応している者に移るわ」
冷めた紅茶を一杯啜り、すぐに仕事に戻る。
「なるほど、ありがとう」
「どういたしまして」
最後の一枚、あと少しでディナーにいけるとワクワクしていたフィアとは対象的に、善大王は渋そうな表情をする。
「フィア、悪い。今日のディナーは取り消しだ」
「……どうしたの?」
「これを見てくれ」
善大王の机に置かれた紙を見ると、善大王はフィアの方へと向きを合わせた。
「記憶喪失の少女がいるので、善大王様に保護してもらいたい……これ、ライトに頼むこと?」
「ああ、この依頼元は冴えない村らしい。だからこそ、かなり不可思議だ。ただ、こちらとしても動く方向で考えたい」
「子供だから?」
「それもあるが……いや」
そこで区切ると、善大王は立ち上がり、クローゼットにしまってあった白いコートを取り出す。
「行っちゃうの?」
「ああ、しばらく戻れないかもしれない。フィア、留守番を頼むぞ」
「……うん、分かったよ」
妙に素直なフィアを見て、善大王は笑った。
執務室を出てシナヴァリアに話を通し、改めて馬車の場所へと向かう。
予想通りか、馬車の前でフィアは待ち構えていた。善大王は、それを問題視しない。
「あんまり迷惑掛けないでくれよな」
「分かっているよ」
善大王からすれば、相手が子供である以上、フィアのような子供がいたほうが安心できると考えていた。
そして、今回の一件が長丁場になる可能性も懸念していただけに、フィアを傍においておいたほうがいいとも。
そうして二人は、再び光の国を発った。
船着場に到着して早々、善大王はさっさと定期船に乗り込み、眠り始めてしまう。
フィアとしてはこれが面白いはずもなく、起こそうとしたのだが、善大王が今まで働き詰めだったことを知っているだけにそうはいかない。
結局、ただ一人定期船の出発を待つことになった。
呼び出しを受けたのは水の国。かつて行った時はほとんど観光もできず、不満足な結果に終わったが、今回は楽しめるかもしれないと期待しているフィア。
ふと、一つの考えが彼女の脳裏を過ぎった。
「ライムに頼めば、記憶を元通りにできるんじゃ……」
闇属性のエキスパートともなれば、記憶の修復どころか、トラウマの切除から生きる理由の移植、信念を与えるなども造作もない。
そういう意味で言えば、精神関係の異常を起こしている相手には丁度いいのだ。
ただ、フィアとしては一つの不安がある。
彼女からしても、ライムは謎が多い人物なのだ。人の心を壊すことすら、してもおかしくない人間。
事後報告、かつそれが正当なこととはいえ、聖堂騎士の殺害についても平気で連絡を寄こしてきた。それで信用が失墜したわけではないが、疑念は強まっている。
それでも、フィアの能力では記憶喪失の問題は解決できない。手っ取り早く解決するならば、仲間を頼るしかない、と考えた。ミネアの一件で、巫女に対する仲間意識を強めたことも影響しているのだろう。
一度仮眠を挟み、夜になった時点で甲板に出る。そして、人がいないことを認めた後、目を閉じた。
『ライム、聞こえている?』
『ええ、聞こえていますわ。ずいぶん遅い時間に、ですわね』
時間から言えば子供が寝始める時間である。
船の場合はやることがないので大抵の者が眠りに落ちているが、大陸に住まう者ならばそこまで常識からズレた時間ではないのだ。
『頼みがあるんだけど、いい?』
『いいですわ』
『……聞かなくていいの?』
『なら聞きますわね』
相変わらずなつかみどころのない態度に困惑しながらも、フィアは気丈に言う。
『記憶喪失の子がいるのよ。その解決に、あなたの力を借りたい』
『それは天の星の命令ですの? それとも、フィアちゃんの命令?』
『私のお願いよ』
フィアの頭の中には笑い声が響く。
通信術式と違い、《星》同士の通信はかなり高度なのだ。その本質は意識の連結、だからこそフィアは口を開いていない。
この場では隠し立てはできない為、ライムの笑いは本気の感情だ。
『お受けしますわ。その子は《アックア》に連れてきてくださいまし』
『アックア……ええ、分かったわ』
『では、ごきげんよう』
『あっ、ちょっと──』
ライムは一方的に連結を切る。こうなると、再連結しなければ話はできないのだ。
通信術式ならば、これも普通。だが、意識の結合は《天の星》の能力によって行われている、故に、相手から切ることなど本来は不可能のはずなのだ。
『とりあえず、成功かな。それにしても……』
フィアは善大王から記憶喪失の少女がいるという村を聞いていた。だからこそ、アックアでの待ち合わせを奇妙と思わざるを得ない。
アックア、水の国の南西部に位置する宿場町。水の国からは馬車で一日ほどの位置にあるが、宿以外はなにもない町だ。
闇の巫女が来るはずもない町、と考えるとフィアの疑惑は当然のものと言える。




