12
フィアが疑問を覚えた瞬間、ヴェルギンは寝ているミネアの背中を、それはもう強く叩いた。
「げふっ!」
「さっさと起きんか! 待ち人はもう来ておるぞ!」
凄まじい痛みによって悶え苦しみ、ミネアは床に転がってのたうちまわった。
すぐに立ち上がることができないと判断したらしく、そのままミネアは話し始める。
「師匠、痛いです……」
「言い訳は必要ないといったじゃろうが!」
ヴェルギンの身体からは、魔力とは異なった気迫が放たれていた。それは相手を地面に叩き付けてもおかしくないような、濃密な威圧感だった。
それを受けてもなお寝転がり続けるミネアでもなく、すぐに起き上がった。
理不尽にも思えるヴェルギンのやり方だが、これは彼の弟子になった者の宿命なだけに、ミネアは何も文句を言わない。
「それでいい、これ以上待たせてやるものではないぞ」
そう言い残すと、ヴェルギンは空気を読んでか、家から出て行った。
「なんか、ごめんね」フィアは謝罪した。
「フィアが謝ることじゃないわ。師匠はいつもあんな感じだから」
「それでもだけど、しばらく待たせちゃったし」
普通に、ただの少女のように謝るフィアを見て、ミネアは信じられないほどの違和感を覚えた。
数年前に見たフィアは嘘で、これが本当の彼女なのだろうか、それとも今が嘘なのか──ミネアの脳裏には幾多の可能性が乱立していた。
長考の末、一人の男の姿が思い浮かぶ
フィアが王子と呼び、ミネアもその実力を認めた男。光の国の王、善大王。
「(あいつなら、フィアを変えられるかも知れない……前に会った時も、そう思ったわね)」
なるほど、と納得した瞬間、ミネアは笑った。素直に、恐怖心などもなく、純粋に友人の前で笑うかのような笑み。
「わ、私何か変なこと言った?」
「ふふっ、フィアは変わったわね。愛しの王子様のおかげ?」
「私、そんなに変わったかな? でも、ライトのおかげで少しは変わろうと思えたかな」
「すごくいい心がけだと思うわ。それに、大切な人の為に料理を覚えようなんて、フィアはきっと言いお嫁さんになれると思うわ」
フィアの扱い方を心得初めて来たミネアは彼女の様子を見て楽しんでいた。
少し前までは怖いと思っていた少女が、実のところ自分と同じ一途な少女で、好きな人の話になっただけで照れてしまうほどの恥ずかしがり屋と分かったのが嬉しかったのだろう。
「じゃ、早く王子様の為に料理を作れるようにならないと」
「よ、よろしくお願いします!」
といった形で、二人の関係も良くなったところで修行は始まった。
当初は一肌脱ごうという程度の軽い気持ちだったミネアだが、今は恋する乙女の同志として、フィアを全力でバックアップする気のようだ。
「それじゃ、簡単な野菜炒めから」
「私、お菓子くらい作れればいいんだけど」
「お菓子の方が難しいのよ。分量や時間、そのどちらかを少しでも間違えると全然違うものができたりするから」
「うーん……でもぉ」フィアは媚びるように言う。
「でもじゃない!」
どうにもフィアは乗り気になれないようだ。彼女としては善大王が仕事をしている最中に、お茶と共に──お茶も禄に作れないが──持っていけるものを作りたい、という考えがあるからだろう。
そんなフィアに対し、ミネアは熱かった。フィアを恐怖すべき対象ではないと判断し、同志、弟子であると考えるようになったからか、今までのような躊躇はなかった。
「善大王と二人で暮らす時にどうするのよ!」
「ッ! そうだよね、私がライトの食事を作ってあげないとね!」
ミネアの目論見通りに──それとも素で今のようなことをいったのか、どちらかはともかくフィアは普通の料理にもやる気を持ち始めた。
台所にやってきたミネアとフィアは互いに向かい合った。
「とりあえず、これを使ってみて」
ミネアがフィアに手渡したのは、一本のキッチンナイフだった。
「え、えぇーっと、これ何に使うの?」
青ざめた表情でキッチンナイフを睨むフィアを見て、ミネアは判断した。
野菜すら刻んだこともない程に、まったく料理の経験がない、と。
「あー! もういい、あたしが先にやるから! ちゃんと見ていて」
「う、うん!」
フィアは手に持っていたナイフを持ち、震えながらもミネアに手渡そうとした。
「そこ! 刃物を相手に渡す時は、自分が刃の方を持って手渡す!」
間違いだと判断した途端、師匠譲りの厳しさがミネアの表層にまで現れた。
「う、うぅ……はいぃ」
ミネアから放たれた、それまでとは明らかに異なった叱咤はフィアを震え上がらせ、涙目にしていた。
今にも泣き出しそうなフィアを見て、咄嗟に助け舟を出そうとしたミネアだが、ぐっと堪える。
「(ここで甘くしたら、短期的に調理技術を取得するのは不可能よ! 耐えてもらわないと)」
大きく深呼吸し、ミネアは強い口調で言う。
「はい! 早くする!」
厳しくされることに慣れていないフィアは怒ることもできず、ただ泣くことしかできなかった。
しかし、これは自分が選んだ道、ここで負けてなるものかという意志は存在しているようだ。涙目のままにミネアの指示を実行しようとした。
「ちょっと待った! 待って!」
「ふぇ……」
フィアはキッチンナイフの刃を握ろうとしていた。
こればかりにはミネアの中断が掛かるのが当たり前だ。なにせ、このまま握ってしまうと刃が手に食い込み、最悪の場合は指が切断される可能性もあるからだ。
「そのまま離して!」
フィアはわけが分からないまま、キッチンナイフより手を離し、地面に落下させた。
「ふぅ……もう、フィア! そんなところ握ったら手が切れるなんて誰でも分かるでしょ!」
「でも、ミネアは刃を持つって……」
「刃の方! 方! 刃を握れなんて言っていないわ!」
「わかんないよ! ミネアの言ってること全然分からない! わかんないわかんない!」
刃物を使ったことが一度もないフィアからすれば、こんなただの調理用具ですら、武器庫に置かれている剣などの武具と大差ないのだ。
怪我をするのではないか、どう扱えばいいのか、不安は拭い去れない。
それでもミネアに聞かなかったのは、怒られ、驚いてしまったからだ。こうなってしまえば、怖くて質問もできない。
そのせいで危うく怪我をしかけたのだから、どうしようもない。
「もう……あたしが見せるから、この通りにして」
ミネアは落ちたキッチンナイフを拾い上げると、手本を見せるようにキッチンナイフの峰に手のひらを当て、刃に触れないようにして刀身を握った。
「刃は相手に向けないように、ね。細かい渡し方もあるだろうけど、とりあえずはこんな感じでいいわ」
「はっ、向きなんて関係ないでしょ」
「あるのよ!」
まるで興味のなさそうなフィアに不快感を覚えたのか、ミネアはキッチンナイフの柄を持ち、切っ先をフィアの方に向けた。
「はい、どうぞ! 取ってください!」
ドンッ、と切っ先を向けたままにミネアは勢いよく踏み込んだ。それにはフィアも驚きを隠せず、一歩退いた。
「どう、分かった?」
「う、うん……分かったよ」
刃物を突き付けられる恐怖を理解したフィアは萎縮した。それは刃物に対する恐れだけではなく、ミネアの立てた大きな音と彼女の怒りが大きく関係していたことは言うまでもない。
「それに、刃の方を向けられたら受け取りづらいでしょ?」
「そういえば、そう……かも」
「かもじゃやなくて、そうなのよ! 料理人は相手のことを気遣わなきゃ駄目! 自分勝手はご法度! 特にフィアは善大王の彼女目指しているんでしょ、なら余計によ!」
フィアの甘えを一切許さないミネアの口撃。完全な正解以外は間違いとして話を進めるという彼女のやり方は、一般的に理不尽と思える。
しかし、それがヴェルギン流のやり方なだけに仕方がない。何が何でも、仕方がないのだ。
「こんなことをやっていたら進まないから、見ていて」
ミネアは事前に用意していた野菜と落ちたキッチンナイフを水で洗い、手早く切っていった。
「とりあえずこれで半分、じゃあフィアもやってみて」
「え? 私は何も教わってないよ?」
「今のは見ていた?」
「うん」
「ならできるわね。じゃあ、早く」
フィアは知っての通り王族だ。それも外にはほとんど出ず、人間関係も閉ざしていた程に、過保護な育て方をされている。
習い事は行っていたようだが、ここまで粗野な教え方は始めてだったらしく、手取り足取り教えてもらえると思い込んでいた。だからこそ、先ほどの作業は断片的にしか覚えていない。
「……」
「やらないの?」
「…………」
ひたすらキッチンナイフを見つめるフィア。ただひたすらに見つめ続けるだけで、手はまったく動かない。
「見てなかった?」
「見てた」
食い気味に、フィアは即答した。そう来ることを読んでいれば理解できる速度なのだが、彼女の額からは汗が流れ出している。それが全ての真実だった。
「本当は?」
「見てた」
「どんなことをやっていたか、覚えている?」
「……」
今までの返事に限っては、一応は本当だった。
しかし、ここからは嘘をつくことになる。それをしたくはない、という考えがあるだけに、フィアは黙り込んでしまった。
「見てなかったならもう一度するけど」
「うん、お願い」
「やっぱり見てなかったんじゃない!」
ミネアはフィアの頭に拳骨を叩きこみ、怒り出した。
負けじと、フィアも怒り返した。
「た、確かに良くは見てなかったけど、見ていたものは見ていたの!」
「はぁ……ルール説明をしないのが師匠の流儀だけど、特別だから教えるわ。あたしはフィアに何かを教えることはないわ。フィアが自分で考えてから、自分で盗んで」
「うん、それが分かったならちゃんとできるよ」
そうして、フィアの料理修行が本格的に開始された。
しかし、この始まり方からして、簡単に成し遂げられる問題ではなかった。




