9C
「……来たか」
近くの木に昇り、眠りを取っていたシナヴァリアは身軽な動きで降り、増援部隊と合流した。
彼の特異性を理解している軍人であっても、宰相である男がこうした劣悪な環境で待っていた、ということには驚く者が多い。
「宰相、状況は」
ダーインに問われるが、彼は首を横に振った。
「追撃を逃れるのが精一杯だった。あの住処にはしばらく近付けていない」
「それほどの強敵だった、と」
「ああ」
ダーインは頷き、改めて部隊に命令を送る。
すると、大部隊が一斉に動き出し、魔物の巣に向かって進みだした。
「宰相が逃げるとは、少しばかり予想外でしたよ」
「……」
「いえ、喜ばしいことですよ。相手の実力も測れましたし、なにより指揮官を失うのは致命的だ」
「かの魔物は人間部位を死に至らしめれば、それで終わる」
「なるほど……その上で、仕留めきれなかったと」
「一匹、明らかに群を抜いた個体がいた。正直、勝てないと言うことがすぐに分かるほどだ」
「どのような、相手ですか」
シナヴァリアがこうも素直に負けを認めたのを見て、ダーインはことの重大性を理解した。
人間という枠組みにおいて、彼は間違いなく最上位の層に居る人間である。
その彼が絶対に勝てないとまで感知した時点で、《選ばれし三柱》であっても楽観視できる問題ではなくなった。
「全てが謎だ。黒い気体を纏い、風の一族以上の運動性能を持つ。人型の魔物としては、明らかに規格外の実力だ」
「正体不明の黒い力……ですか」
彼はしばらく考え、眉を潜めた。
「それは間違いなく人間でしたか?」
「ああ、その通りだ」
「それはあり得ませんね。私の知る限り、あれは人間が行使できるものの類ではありません。例の混じった個体であっても、変わらないかと」
彼が事情を知っていると聞きながらも、シナヴァリアは焦らなかった。
「しかし、人間だ」
「何を根拠に。まだ、吸血鬼の血を引いている、という話のほうが信憑性がありますよ」
「その魔物は、間違いなく姫だった」
それを聞いた瞬間、ダーインは沈黙した。というより、唖然としていた。
「アルマ姫が?」
「肌や髪の色は違っていたが、間違いない」
「なるほど……道理で宰相が撤退を選ぶわけだ。しかし、そうなると問題は大きくなってきましたよ」
「それは初めから変わらないだろう」
「言ったでしょう、あの力を使えるのは魔物に限りなく近い個体。もし、宰相の言葉が真実だとすれば、姫はもう既に人間ではありません」
事情を理解しているだけに、彼の表情はひどく深刻なものだった。
「そんなことがあり得るのか?」
「はっきり言えば、あり得ない。光の巫女である姫が魔物になるなど、まず間違いなく起こりえないことだ。彼女の身を変異させるとなれば、それこそ魔物そのものが寄生する他にない」
「……」
「そして、それもあり得ないことだ。もし、万が一、魔物の寄生を許したところで、あの強烈な光属性に耐えきれる魔物がいるとは思えない。そして――姫がその侵蝕に抗わないとも思えない」
どう考えても、アルマが魔物と化したという事実は信じられないことである、ということを彼は言っていた。
確かに、彼の言うことはその通りであり、多くの可能性を掻い潜った先でもそこに到達することはない。
ただ、確実にないというわけではない。
もし、巫女がその変異を自ら受け入れたとすれば、それは十分に起こりうることになる。
拒むどころか、変異の快楽に取り憑かれたともなれば、起こらない方が不思議というほどだろう。