18f
――風の大山脈。
「らぁあああああああああああああああああああ」
黒い天使は叫び声を上げ、怒り狂うように翼を振るった。
「避けなさい! その子は私が――」
ガムラオルスは何も答えず、自身の翼を展開し、一対で一本に向かった。
天使のレベルに到達した本物の翼に、制限付きの仮初めの翼で対抗できるはずがなかった。
しかし、またもや黒い翼の軌道は逸らされ、エルズもガムラオルスも直撃を避ける。
ただ、激しい破壊の余波までは防ぎきれず、黒い衝撃波が彼の頬に無数の傷跡を刻んだ。
「一度ならず二度までも……まさか、あれはいつかの」
ガムラオルスの翼は、明らかに変化している。
以前は残光のように実体の乏しい質感だったが、今は僅かに粘性を帯び、波立つ表面には羽根の片鱗が窺えた。
「ティア、目を覚ませ」
「がぁああああああああああああああああああああ」
返ってくるのは、叫びだけ。そこに、対話などありはしなかった。
彼は拳を強く握り、彼女の顔を見つめる。
「馬鹿みたいに片意地を張った男が、憎いのか」
翼は振り上げられ、攻撃の準備が整えられていく。
「そうだよな……憎いよな。なら、その怒りは俺にぶつけろ。お前の怒りも、お前の嘆きも、全てまとめて、俺が受け止める」
そう言うと、彼は翼を広げ、遙か高みにいるティアへと迫った。
「風神! そこの娘は任せた」
「……若造が、私を呼び捨て? でもまぁ、今は承知したわ!」
迫り来るガムラオルスを仕留めるべく、ティアの翼は大質量の突進により、途轍もない風を生み出す。
速度は明確に落ちるが、彼はその分だけ出力を上げ、彼女に歩み寄る速度を高く仕上げた。
そして、本命の黒翼が眼前へと到達するが、彼は素早く切り返し、紙一重に避け――そのまま速度をさらにあげた。
「俺のあいつのところまで……連れて行ってくれ! あいつの速さに! あいつの高さに!!」
真横を走る黒翼の羽根が左手を掠り、増していく速度により、傷口から途轍もない血が吹き出していく。
黒の線と平行に走るは、明るい緑と細い赤い線。
ティアは圧倒的な優位でありながらも、空に逃れようとした。彼の届き得ない、遙かなる空へ。
だが、彼は止まらない。彼は肉体の無理を一切考慮せず、遠ざかる彼女の速さに、彼女の高さに追いつこうとした。
瞬間、途轍もない加速により狭まった視野の中――ティアの瞳が鮮明に見えた。
遠くからではしっかりと見えなかったそれは、涙に濡れていた。
「ティ……ア」
怒りや憎しみなどではない。そこにあったのは、嘆きと悔やみだった。
彼は握った拳をほどき、目を閉じた。
真っ暗闇の世界であっても、彼の飛行感覚は違えない。ただ真っ直ぐに、ティアのもとへと向かっていく。
「(ティア……今すぐにでも、お前のところへ)」
強い願いが結晶となった瞬間、一面黒の世界は虹色の世界となった。
目を閉じていたガムラオルスは驚き、目を開ける。やはり、そこは知覚していた世界そのものだった。
「ここは……」
ティアの居ない虹色の世界であったが、彼は迷うこともなく、高速で進み続けた。
その先にティアが居ると、確信を持っていたのだ。
そして、有る地点に到着した時点で、周囲とは色の違う、淡い扉のような空間が見えてくる。
彼は恐れることもなく、その空間に飛び込んだ。
途端に、世界はまた姿を変える。今度は、どこか見覚えのある風景だった。
「……あの時の、あの場所か」
幼き日、ティアと共に過ごした場所。彼女がよく座った切り株が目印の、特別な場所。
だが、それは次第に壊れていく。世界は認識のしようのない無に呑まれていき、思い出の景色も壊れていった。
「くそ……ティア、どこだ!」
強く意識した瞬間、ようやく彼女を見つける。そこには、ティアだけではなく、エルズも立っていた。
「ティア!」
叫ぶが、彼女に声は届かない。
「くそ……くそがああああああああああああ」
彼女の足下が虚無に呑まれていき、伸ばされたエルズの手も、届きはしなかった。
無に落ち、反転した世界に喰われるように、彼女の色もまた反転色に変わる。
ただ一人残されたエルズはそれを追おうとしたが、そうしたところで意味がないのは明白だった。
「(ティアを救えるのは……俺だけか)」
彼は覚悟を決めた。そして……。
「ここは俺に任せろ!」