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――風の大山脈、山道にて……。
『族長のところに!? でも、今居るのは聖域ですよ! あそこに踏み居るなんて』
彼女は里で聞いた言葉を思い出しながら、歩みを早めた。
「……ティア、無事でいて」
早期に決着がついたエルズは敵兵力を全て捕縛し、ティアの場所を目指していた。
当初は親友に全てを任せようともしたが、二人の戦いが想像する以上に激化していることに気付いてからは、居ても立ってもいられなくなったのだ。
ただ、彼女の不安は出発時よりもさらに大きなものになっていた。
最初こそはガムラオルスとの戦いだったのだが、ある時点から明らかに別種の――魔物などを想起させる邪悪な魔力が戦場に混ざり込み始めた。
それが誰なのかは分からないが、少なくともティアの魔力がどんどん希薄になっているというのは間違いなく、それ故に彼女は歩みを早めている。
目的地は風の聖域。
本来、この山の住民であれば近付けない聖地であり、それを意図してティアは戦場に選んだ。
だが、エルズからすれば関係のないことだった。
彼女に風神に対する畏れはなく、たとえあったとしても、親友の為に向かったことだろう。
ふと、風属性のマナが強まることを感じた。
「(これが、聖域……)」
彼女はここに来て、自分が高を括っていたことに気付く。
かつて善大王がそうであったように、相反する属性の土地に近づこうものなら、拒絶反応が起きるのだ。
ただ、聖域ともなると話は別である。干渉しない属性であっても、肉体が忌避するほどの異物感が襲いかかるのだ。
マナの存在を感じたのも、それが原因。
聖域より離れた土地を歩くのであれば、これを察知できるものはないだろう。
ただし、聖域のすぐそばともなれば、魔力の探知すらできない人間でもそれを感じざるをえない。
「それでも……止めるわけには行かない」
彼女は言いしれぬ恐怖を振り切り、足を動かした。
進む毎に威圧感が精神を弱らせ、圧迫感が肉体を軋ませていく。
「こんなので……こんなので……」
震え出す足を見た時、エルズは別方向から襲いかかってくる感触により、恐怖を忘れた。
空を見上げると、そこには蒼を否定し、緑を広げる大きな翼が在った。
「あれ……?」
次の瞬間、ペンを滑らせたような黒く細い線が伸び、キャンバスの如く緑へと飛び込んでいく。
それはほどなく、はじき飛ばされ、インクが切れたように細く掠れていった。
「あれ、何なの……?」
「あれはティアに決まってるじゃない。って言っても、あなたの目には見えてないか」
さりげなく語りかけてきた声に気付き、辺りを見渡すが、誰も居ない。
「あー私よ、私。空にいる馬鹿でかい鳥」
そう言われ、ようやく彼女は理解した。
この声を発している存在こそが、ティア――と言われた黒線――と戦っている翼なのだと。
「えっ、ちょっと待って。それってどういう」
「《神獣》って言えば分かるかしら? ティアの友達で、この聖域の守護者……で、今はそれを荒そうとするティアと戦っているわけ」
あまりにわけのわからない状況に、エルズは唖然とした。
「(《神獣》? ティアが聖域を荒らし回ってる? ……待って、ガムラオルスはどこに行ったのよ)」
今までの流れを知らない彼女に、この状況を理解しろという方が無理な話だった。
「とりあえず――ちょっと待った」
言葉を切ると、ライラは無数の羽根を飛ばし、自身に迫ってくるティアを打ち落とそうとする。
ほぼ全てが直撃し、彼女の動きが止まるが、落ちることはない。
不安定なまま、彼女の黒い翼は際限なく出力を増し、主を無理矢理に空へと叩き上げていた。
制御もなく、ひどい軌道で左右に振られながらも、彼女はどんどん高い場所へと運ばれていく。
だが、ある時点で再度動きが止まり、無数の羽根は引き抜かれた。そして、そのまま急降下するようにライラへと迫った。
「――とまぁ、こんな具合。私も止めようと頑張ってるけど、この子の気を失わせるのは無理そうね」
「無理って……そもそもなんでこんなことに!」
「説明する時間も惜しいのよ。私にその仮面を使いなさい、今度はティアに繋がるはずよ」