29C
「……え」
「宰相……何を」
シナヴァリアは振り返ると同時に、手に隠し持っていたナイフを血振りし、白いハンカチに包んで懐にしまった。
「こちらが手を出さないと軽んじたのは、間違いだったようだな」
「ぐぅ……罪深き、異教徒がッ……!」
地面に臥した法王は手を伸ばし、宰相の足を掴もうとするが、血を吐き出す。
その瞬間、力が抜けたように手は地面に落ち、睨み付けていた瞳から眼光が消えた。
「宰相、自分が何をやったのかを理解しているのか!?」
「何の問題がある? これで教会は求心力を失う。後はゆっくり、こちらが集めた証拠を提示していけばいい」
「……殺したという事実は、消えない」
「ならば、こうすればいい」
彼は懐にしまったナイフを取り出すと、ハンカチに包んだまま、地面に投げ捨てた。
「この国の医療部門は優秀だ。ここまで証拠を残してやれば、誰が犯人かが分かる」
「また、己を犠牲にするつもりか」
「私は戦場に戻る。教会の者達が幾ら憎もうとも、あの場に来たがる者はいないだろう」
罪人が罪を重ねただけ、とシナヴァリアは言いたかったのだろう。
だが、それは本質からしてズレていた。
ダーインは本件を利用し、彼を宰相に戻そうとしていた。だからこそ、戦場に戻られては困るのだ。
「この男の所業を見た上で、私を裁きに来る者がいるというのであれば、この国の未来を憂うだけだ」
それだけ告げると、彼はさっさとその場を離れた。
大貴族はしばらく迷った後「姫、私は宰相を追います。なるべく早くこの場を離れるように」と言い、言葉通りに宰相を追った。
その場に残されたアルマは硬直していたが、すぐにバールへと駆け寄ると、回復用の術を用意する。
「聖女……様」
「もう少し頑張って。あたしが治してみせるから」
「なぜ……? わたしは……」
「もう、誰一人だって死んで欲しくないもん。だから、あなたも助けるよ」
彼女の言葉を聞いた瞬間、苦痛に歪んだ顔は脱力し、僅かばかり穏やかな表情に変化した。
「やはり、あなたは聖女だ……」
「静かにして」
「……全てが、狙い通りだった。あなたを利用し、民の信望を集め、戦いに向かった……」
アルマは何も答えず、《魔導式》の展開を進める。
「だが、あの時……あの場に向かった時だけは、思い出してしまった。若き日の、本当に神を信じていた頃の、真の信仰を……」
「……」
聖女は無反応を貫こうとしていたが、これには驚きを見せた。
「神などいない。神の奇跡などない。そんなことは、ずっと昔から気付いていた。そう考えて、長い年月を過ごしてきた……しかし、あなたはその手で、私の理想を果たした」
「りそう……?」
「皆が互いに理解し、思い合い、己を奮い立てて戦場に向かおうとする姿を見て……私は、真なる信仰を……教会の在るべき姿を、思い出した」
アルマは術を発動させ、彼の傷を癒やしていく。
心地よさが襲うが、法王は意識を飛ばすこともなく、話を続けた。
「ずっと昔、私はその理想を目指していた……それを思い出してしまった。もう覚めたと思っていた、過去の夢を」
瞬間、彼の生命力が著しく減少していき、アルマは焦りを抱いた。
「喋らないで! もっと治るまでは……」
「思い出してしまえば、動かずには居られなかった。気付いたとき、私は皆と共に、あなたのいる戦場に――」
「喋らないで!! 絶対に死なせたりなんて……」
「もう、いいのですよ」
彼の顔は死を受け入れたとは思えない、幸福に満ちた表情だった。
「救いもなく死んでいくはずの老体が、過去の輝きを――手の届かない理想を見れた。もう、悔いは……」
そこで、アルマは彼の生命活動が終了したことに気付いた。
「なんで……じゃあ、なんで」
目の前の理不尽に絶えられなくなり、彼女その場を逃げるように走り去っていった
「(結局、私は捨てることができなかった。夢に向かっていたあの時代は、紛れもなく輝かしき日々だった。
だが、今まで生きてきたこの数十年も、仮初めなどではない真の私……嘘をつけるはずなど、ないではないか)」
残留していたソウルは完全に消滅し、彼の生命は幕を閉じた。
結局のところ、彼は長く生きすぎたのだろう。
だからこそ、奇跡を見ても尚、それをただの過去の夢としてしか見れなかった。
理想に到達したとしても、そこで今までの人生を否定できるほど、彼の過ごしてきた時は短くなかった。
彼は最後の最後までは、自分の人生を悔いることもなく終わったのだ。