10y
「バール……さん」
「皆、心を静かに保つのだ」
法王はアルマを一瞥することもなく、そう言った。
「で、ですが魔物がいるというのは……」
「我々はどうすれば!」
「ただ、祈るのだ。今まで通り、絶えぬ祈りこそが調和を生み出し、平穏を作る」
現実に引き戻されつつあった者達は、それを聞いた瞬間、穏やかな表情になった。
彼らは例に漏れず、皆が皆、この非常事態に祈祷を始めたのだ。
「バ、バールさん! 早く逃げないと!」
「聖女アルマ、あなたも祈りを捧げるのです」
「しっかりして! 今はそんなことしてる場合じゃないよ!」
「民が乱れし時こそ、指導者は強さを示さなければならない……聖女アルマ、あなたこそしっかりするのです」
皮肉なことだが、彼の言い分は最もだった。
民が落ち着きを取り戻したのは、この取り乱して然るべき状況で、彼が強さを示したからに他ならない。
人は誰しも、不安から逃れたがる。危険信号が人を助く為のものと分かっても、痛みや疼きを嫌悪するのと同じだ。
今、彼らは事態の打破や解決よりも、目先の痛みから逃れようとしていた。
――いや、心のどこかでバールが解決してくれるのではないか、という期待を抱いている。
逃げるのが正解。ただ、彼女は説得する手段を間違えていた。
「(やっぱり、あたしじゃ駄目なのかな……善大王さんがいないと――)」
刹那、彼女の脳裏に白い法衣を纏った男が過ぎった。
「……この国を消させたりなんて、しない」
静寂の中、その小さな声は多くの人の耳に入った。
しかし、それでも人々の祈りは中断されない。
「バールさん、みんなをお願い」
「……どこに行くつもりですか」
「あたしは一人でも戦うよ。だって、みんなを守りたいから」
法王は何も答えず、目を閉じた。
アルマは彼からの返答がなかったことには気を留めず、首都の外を目指して走り出した。
ただ一人であっても戦う、という言葉に偽りはなかった。
彼女はこの場で朽ちようとも、光の国を守り抜こうと考えているのだ。
それは、《光の星》としての本能ではなかった。アルマという一個人が願い、望んだことだった。
ただ一つだけ残った彼との繋がり、彼の痕跡をここで消したくないと強く願ったのだ。
人気のない道を走ると、脇道からいつか見た半人半魔物が現れ、彼女に襲いかかってきた。
「もう来てるの!?」
驚きながらも、彼女は着実に《魔導式》を構築し、反撃しようとする。
しかし、当然ながら相手の方が早い。尖った昆虫の脚部が彼女の腕の付け根に突き刺さり、抉るように蠢いた。
「っ――ぁ」
叫び声すら出せず、息だけが声のように吐き出される。
肉が弄くられる感触、深爪した指が擦れるような疼きが襲い、彼女は涙を溜めた。
《星》はあまりにも強すぎる痛みの場合、大部分がセーブされるようにはなっているが、触覚は普通の人間と同様に存在している。
自分の体が滅茶苦茶にされる感触は、耐えがたい不快感をもたらす。
そして、カットされない軽度の痛みは明確に意識を乱していく。
「ら……らいと、しょっと」
詠唱を行おうにも、痛みでこわばった状態では呻きのような声しか出せない。
《魔導式》が意識の乱れによって歪みだし、崩壊を始めようとした。
だが、彼女が詠唱することもなく、それは黄色の光を放ち――魔物を打ち抜いた。
体に突き刺さっていた脚が消滅すると、アルマは息絶え絶えになりながら、四つん這いになった。
「痛ったい……いたい……よぉ……」
付け根を抉られた腕は体重に絶えきれず、彼女の頬は地面についた。
傷口からは絶えず赤い血が流れだし、金色の瞳からは大粒の涙が滴った。
「しんじゃう……しんじゃうよぉ……」
戦闘の緊張感が抜けたからか、意識は急激に弛緩し、彼女から闘志を奪い去っていく。
あの場で咄嗟に術を発動できたのは、火事場の馬鹿力であり、気が緩んでしまえば同じようなことはできない。