27Ϛ
――甲板にて……。
「まさか、あなたが生きているとは思わなかった」
「皮肉か?」
立て膝で甲板に座り込んでいたカッサードへ声をかけたのは、ヘレンだった。
「死を選ぶと思った」
「ハッ、そのつもりだったわ! だがな、部下が命を賭して、この命を繋いでくれた――散らせるわけにはいかんだろう」
最初こそは仕返しをしようとしていた将軍だが、大人しく撤退することになったのは、それに気付いたからだった。
もし、彼がその気であれば部下数名では止めきれなかっただろう。
「負けだ! 惨敗だ!! この戦い、何も得ることができなかった!」
「あなたは生き延び、そして勝利した」
「……部下が生き延びてこその勝利だ」
「私は全滅すると見ていた。部下を連れて戻ってくることができたなら、勝利。仕留めきれなかった善大王達は、負け」
「慰めているつもりか? らしくもない」
「……」
ヘレンは何も言い返さず、踵を返した。
「お前に慰められるようでは、第一部隊の名折れだな!」
自分の中で沈黙の意味を解釈し、カッサードは一人で奮起した。
だが、真意とは違っていた。
皮肉でもなく、本音でもなく、自嘲としてその言葉を紡いでいたのだ。
「(捨て駒に利用したあの男は生き残り、犠牲の上に動いた私は、事を成せなかった……本当の敗北者は、私)」
特殊勝利の存在する局地戦と違い、大局で事を決める戦略の戦いでは、その一場面での勝敗は明白ではない。
ただし、彼女はこの敗走を明確な失着と判断していた。
敵の基盤を打ち砕き、後続の戦闘に繋げるはずの戦だったが、結果としては少数の破壊にとどまっている。
その上、相手は此度の戦いで基盤を確かなものにし、より攻略が困難になった。
勝ち、負け。白黒は付いていないが、この一手で天秤が大きく傾いたことは明らかだった。
「敗北者……? いえいえ、立派な活躍でしたわ」
「まさか」
「あの戦いで、天使の姿を見た人は多くいたことでしょう。その天使が誰のものかが明らかになれば、雷の国は荒れますわ」
背後から聞こえてくる声を聞きながらも、ヘレンは振り返ろうとはしない。
「巫女様のお力です」
「ええ、ですが――あなたは十分に役目を果たしましたわ。あれ以上を望むつもりはありませんの」
「……取り消してください」
ライムは口許を緩めた。
「はい?」
「取り消してください」
「何を?」
「……立派な活躍、という言葉を。私は敗北を受け入れています」
少しずれた答えに、巫女は妖しい笑みを浮かべた。
「律儀な方ですわね」
「……」
返答もなく、彼女は船内へ戻っていった。
「ありゃどういう意味だぁ?」
「あら、分かりませんの? 勉強が足りませんわね」
「……あの女はマゾヒストってことだろ? それか、責任感が強いか」
ライムは肩を揺らしながら笑い、「全然違いますわ」と言い返した。
「じゃあ、何だって言うんだ?」
「……あれはささやかな抵抗ですわ。自分が程度の低い人間であると認めるくらいなら、敗北を選ぶという――高いプライドに裏付けされた言葉ですの」
「分からんもんだな、人間ってのは。低くみんなよクソガキ、とでも言えばいいものを」
「人間の社会はあなた方の社会と違い、不合理で雁字搦めになっていますのよ。それに、そちらの社会でも、同じことを言えばひねり潰されるでしょう?」
「クハハ、その通り。ただ、こんな中途半端に文句言う何ってのが珍しかっただけだ――雑魚なら雑魚らしく、ヘコヘこしてりゃいい」
そう言うと、蝙蝠のような姿をした男――人間のような姿をした蝙蝠とも――は、翼を大きく広げた。
「しかし、今回の戦いは面白いものが見れた。こりゃ、向こうでも活用できそうだ」
「ええ、戻ることができれば」
途端、蝙蝠男は飛び退き、紅色の瞳でライムを――彼女から伸びてきた、巨大な三本指の爪先を見つめた。
「なんだよ」
「クソガキ、というのが心外だっただけですわ」
「チッ、人間風情が……はいはい、私が悪うございましたよ」
「よろしい」
悪魔のような爪は黒い霧のように消え去り、彼女は余裕を持った笑みを取り戻した。
「まったく、人間にも怖い奴がいるもんだ。こんなんじゃ、家畜としても生かしておきたくないもんだよ」
「なら、隣人として考えてみては?」
「冗談――にしても、お前……何者だ?」
その声は今までの茶化したような声ではなく、真剣な――冷え切った刃のような鋭さを有していた。
「聞くまでもないでしょう? わたくしは神様の巫女、それ以上でも、それ以下でもありませんわ」
「ハッ、聞くだけ無駄か。アバヨ、巫女さん」
そう言い残すと、蝙蝠男は飛び去っていった。